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6_雨の匂いの来る日

雨の降りはじめの土の匂いを嗅ぐと、理由のわからないいかりが腹の底から来る元・船大工。昔の仲間にも島の古老にも医者にも聞いたが、今世に原因はない。答えは出ない。誰も証言できない。探すのをやめ、わからないまま連れて歩く。

6_雨の匂いの来る日

朗読で聴く

第一章 八月の入り江

鹿児島の南の入り江で、舟を作っていた。

わたしは七十七になる。

船大工を辞めて、十二年になった。

入り江に面した、古い小屋が、わたしの家だ。

海は、目の前にある。

満潮になると、波が石垣の下まで来て、引くと、黒い泥が顔を出す。

十五で見習いに入って、六十まで、四十五年、木の舟を作り続けた。

杉の板を曲げ、釘を打ち、継ぎ目に桧皮を詰める。

その舟で、この入り江の漁師たちが、海に出た。

舟は、生き物だ。

板は、水を吸って、膨らむ。

その膨らみを見越して、板と板のあいだに、わずかな隙間を残す。

隙間がきつすぎれば、舟は割れる。

広すぎれば、水が入る。

その加減を、手が覚えるのに、十年かかった。

いまは、木の舟は、ほとんど見ない。

樹脂の舟が、静かに、波に浮かんでいる。

小屋の脇の作業場には、わたしが最後に作った舟が、船台に載ったまま、置いてある。

売れ残ったのではない。

売らなかった。

一人で暮らしている。

妻は、二十年前に亡くなった。

隣の家には、六十を過ぎた夫婦の、奥さんのほうが、よく顔を出してくれる。

漬物や、煮物を、鍋ごと持ってきてくれる。

八月の、暑い日の夕方だった。

空に、雲が湧いていた。

入道雲の底が、鉛色に黒ずんでいた。

わたしは、縁側に出て、海を見ていた。

そのとき、風が変わった。

ぱらぱらと、大きな雨粒が、庭の土を打った。

土の匂いが、立ちのぼった。

雨の降りはじめの、あの匂いだった。

その匂いを嗅いだ瞬間、腹の底が、ぐっと熱くなった。

第二章 匂いが先に

それは、まぎれもなく、いかりだった。

わたしは、縁側の柱に、手をついた。

相手はいない。

誰かに腹を立てたわけではない。

雨にも、土にも、暑さにも、いかりの向かう先がない。

向かう先のないものが、腹の底にだけ、はっきりとある。

雨は、すぐに、本降りになった。

庭の石が、黒く濡れていった。

匂いは、さらに強くなった。

三分ほどで、腹の熱さは、引いていった。

その匂いは、子どものころから、そうだった。

夏の夕立のたびに、わたしは、家の奥に逃げ込んで、耳をふさいだ。

耳をふさいでも、匂いは、入ってくる。

母が、よく言っていた。

この子は、雨が嫌いでな、と。

けれど、雨が嫌いなわけではなかった。

船大工の仕事には、雨の日も、あった。

濡れた杉の匂いは、いまも、好きだ。

雨そのものは、嫌ではない。

雨に打たれても、平気だった。

ただ、雨が降りはじめた最初の瞬間、土の匂いが立ちのぼる、その数秒だけが、駄目だった。

頭は、いつも、静かだ。

雨の匂いが、ただの匂いにすぎないことは、わかっている。

それなのに、体のほうが、先に動く。

匂いが意味になる前に、もう、腹の底が動いている。

わたしは、ときどき、この体が、自分より古いように感じる。

七十七年、使ってきた体だ。

けれど、そこに入っているものの一部は、わたしが生まれる前から、あったような気がする。

第三章 隣の人が数えるもの

隣の家の奥さんは、洗濯の回数を数えている。

今週は何回、先週は何回。

雨が降ると、洗濯が溜まって、困る、と言う。

天気予報は、毎日、欠かさず見ている。

悪気はない。

一人暮らしのわたしを、心配して、様子を見に来てくれる。

わたしは、いかりが来た日の数を数えている。

数えたくて数えているのではない。

来ると、覚えてしまう。

七十年ぶんが、頭のどこかに積んである。

何の役にも立たないし、誰にも渡せない。

隣り合って暮らしている二人が、まったく別のものを数えていた。

奥さんの数字は、洗濯物に使える。

わたしの数えているものは、どこにも使えない。

一度だけ、奥さんに話したことがある。

雨の降りはじめの匂いが、嫌でな、と。

奥さんは、洗濯物の心配ですか、と笑った。

わたしは、そうだな、と言った。

それで終わった。

説明のつかないものを人に話すと、必ず、いちばん近い説明が返ってくる。

土の匂いは、苦手な人もいる。

年のせい。

疲れているから。

どれも近いが、どれも違う。

近いものを渡されるたびに、わたしは少しずつ黙るようになった。

黙るのは、諦めたからではない。

言えば言うほど、自分の中の本当のかたちが、削られていく気がしたからだった。

奥さんは、それを知らないまま、雨の日には、洗濯物を取り込む前に、わたしの縁側の戸を閉めてくれる。

それで、十分だと思っている。

言葉にしなくても、伝わるものがある。

そう思うことにしている。

第四章 誰も知らなかった

原因は、探した。

まず、船大工の組合の、昔の仲間に聞いた。

雨の匂いで、おかしくなる者はいたか、と。

仲間は、みんな、笑った。

雨の匂いは、船大工の、いちばん好きな匂いだと言った。

島の古い人にも、聞いて回った。

わたしの親の代の、昔の話を、いくつも聞かせてもらった。

戦争のときの話、嵐で舟が沈んだ話。

けれど、雨の匂いに関わる話は、どこにもなかった。

六十のとき、町の病院に行った。

鼻の検査も、頭の検査も、異常はなかった。

医者は、年配の人で、少し考えてから、こう言った。

原因が、わからないものも、あるんです。

わたしは、その言葉を、帰りの船の中で、何度も思い出した。

匙を投げた言葉ではなかった。

誠実な言葉だと思った。

海は、凪いでいた。

船の窓から、遠い島影が、薄く見えた。

あの島にも、わたしの作った舟が、まだ一艘、浮かんでいるはずだった。

空の雲が、ゆっくり動いていた。

原因がわかれば、対処ができる。

対処ができなくても、名前がつけば、それを持って生きていける。

名前のないものを七十年抱えるというのは、そのどちらでもない場所に、居続けることだった。

今世には、何もない。

生まれてから七十七年のどこにも、あの匂いに対応する出来事はない。

探し方が足りないのではない。

単に、ない。

誰も、証言できない。

第五章 連れて歩く

七十を過ぎて、わたしは探すのをやめた。

やめると決めたわけではない。

ある夕方、船台の舟を見ながら、ふと思ったのだ。

これは、舟の継ぎ目の水漏れみたいなものかもしれない。

水漏れに、理由をいつまでも探す者はいない。

そこにあるとわかっているから、桧皮を詰めて、また海に出る。

恨まないし、なくそうともしない。

来なくなったわけではない。

いまも、同じように来る。

強さも、変わらない。

変わったのは、来ているあいだに「なぜ」と考えなくなったことだけだ。

戸惑いは、減らない。

来るたびに、わたしは戸惑う。

どうして、と思う。

けれど、戸惑うことも含めて、これがわたしだと、少しだけ思えるようになった。

わからないまま、戸惑いながら、連れて歩く。

それが、七十七年のあいだに、わたしにできるようになったことだった。

その夕方、雨は上がらなかった。

入り江の水面が、灰色のまま、暗くなっていった。

エピローグ

翌日の夕方も、わたしは縁側に出た。

空が、また、鉛色に曇っていた。

風が変わって、庭の土に、雨粒が落ちた。

匂いが、立ちのぼった。

来た。

腹の底が、ぐっと熱くなった。

相手はいない。

理由もない。

わたしは、柱に手をついた。

耳をふさぐことは、しなかった。

隣の庭から、洗濯物を取り込む音が、聞こえてきた。

三分ほどで、引いていった。

何も解決していない。

来年も、また夕立は来る。

わたしは、作業場へ歩いていった。

船台の舟の、船べりに、手を置いた。

濡れた杉の板が、冷たくて、少しだけ、あたたかかった。

ソウルミッション358

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