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5_ベルの鳴る店

古い黒電話のベルを聞くと、理由のわからないいかりが腹の底から来る鍵屋。母にも同級生にも医者にも聞いたが、今世に原因はない。答えは出ない。誰も証言できない。探すのをやめ、わからないまま連れて歩く。

5_ベルの鳴る店

朗読で聴く

第一章 六月の鍵屋

埼玉の小さな町で、鍵屋をしている。

わたしは四十二になる。

父の店を継いで、十五年になった。

駅から少し歩いた、古い商店街の一角に、店がある。

間口は二間ほどで、ガラス戸の内側に、鍵が並んでいる。

合鍵、錠前、金庫の部品。

それから、入り口の脇に、古い黒電話が置いてある。

父の代から、店の電話は、この黒電話だ。

受話器が重くて、ダイヤルを回すのに、時間がかかる。

注文は、ほとんどが、この電話で入る。

鍵をなくした人、家に入れなくなった人。

誰かが困ったときに、真っ先にかける番号が、この店の番号になっている。

夜中に鳴ることも、ある。

そのたびに、わたしは、寝間着の上に上着を羽織って、鍵の箱を提げて、走る。

開いた扉の前で、人が、ほっと息をつく顔を見るのは、悪くない。

六月の、梅雨の合間の、蒸し暑い午後だった。

十歳になる娘のみずきが、学校から帰って、店の奥の座敷で、宿題をしていた。

妻は、いない。

娘が四歳のときに、病気で亡くなった。

わたしは、店の作業台で、古い錠前を分解していた。

細いドライバーで、小さなバネを外す。

そのとき、入り口の脇で、黒電話が鳴りだした。

じりりりん、と、金属のベルが、店じゅうに響いた。

その音を聞いた瞬間、腹の底が、ぐっと熱くなった。

第二章 ベルの音は

それは、まぎれもなく、いかりだった。

わたしは、ドライバーを、作業台に置いた。

手が、震えていた。

相手はいない。

電話の向こうの誰かに腹を立てたわけではない。

鳴っているベルにも、注文にも、いかりの向かう先がない。

向かう先のないものが、腹の底にだけ、はっきりとある。

娘が、座敷から、お父さん、電話、と言った。

わたしは、頷いた。

それから、受話器を取るのに、少し時間がかかった。

もしもし、と言った。

声が、かすれていた。

用件は、普通の鍵の注文だった。

電話を切ったあとも、腹の熱さは、しばらく残った。

この黒電話のベルは、子どものころから、そうだった。

実家の廊下に置かれた電話が鳴るたび、わたしは、耳をふさいで、柱のかげに隠れた。

母は、変な子ね、と笑った。

わたしも、変な子だと思った。

頭は、いつも、静かだ。

ベルが、電話の鳴る音にすぎないことは、わかっている。

それなのに、体のほうが、先に動く。

音が意味になる前に、もう、腹の底が動いている。

不思議なのは、携帯電話の着信音では、何も起きないことだ。

テレビのベルも、玄関のチャイムも、平気だ。

古い黒電話の、金属のベルだけが、来る。

条件は、はっきりしている。

条件があるということは、その条件をつくった何かが、あるはずだ。

わたしは、そう考えて、何度も、探しにいった。

第三章 娘が数えるもの

娘のみずきは、数えるのが好きな子だ。

店の電話が鳴った回数を、毎日、ノートに書いている。

今日は何回、昨日は何回。

雨の日は、多いかな、と言う。

わたしは、いかりが来た日の数を数えている。

数えたくて数えているのではない。

来ると、覚えてしまう。

四十年ぶんが、頭のどこかに積んである。

何の役にも立たないし、誰にも渡せない。

同じ家に暮らしている父と娘が、まったく別のものを数えていた。

みずきの数字は、ノートに残る。

わたしの数えているものは、どこにも書けない。

一度だけ、娘に聞かれたことがある。

お父さんは、電話が鳴ると、どうして怖い顔をするの、と。

わたしは、説明しようとして、途中でやめた。

怖いのではない、と言えば、じゃあ、なんで、と聞かれる。

いかりだ、と言えば、誰に、と聞かれる。

誰にでもない、と答えたら、娘は、首をかしげるだろう。

そこから先に進んだことが、一度もない。

説明のつかないものを説明しようとすると、必ず、言葉が足りなくなる。

足りない言葉で話すと、相手は、いちばん近いものを出してくる。

音が苦手、驚きやすい、疲れている。

どれも近いが、どれも違う。

近いものを渡されるたびに、わたしは少しずつ黙るようになった。

黙るのは、諦めたからではない。

言えば言うほど、自分の中の本当のかたちが、削られていく気がしたからだった。

みずきは、それを察して、聞くのをやめた。

代わりに、電話が鳴ると、わたしより先に、立ち上がるようになった。

小さな手で、重たい受話器を取る。

あの子なりの、やさしい対応だったと思う。

第四章 誰も知らなかった

原因は、探した。

まず、実家の母に聞いた。

小さいころ、電話にまつわる怖いことはなかったか、と。

母は、ないよ、と言った。

夜中の電話も、悪い知らせも、この家には、縁がなかった。

高校の同級生にも、聞いた。

昔のわたしを、よく知っている友人だ。

あいつは、電話が鳴ると、いつも、柱のかげにいたな、と笑った。

けれど、理由は、知らなかった。

三十代のとき、病院にも行った。

耳の検査も、頭の検査も、異常はなかった。

紹介された心療内科で、不安の強い体質かもしれないと言われた。

薬を出された。

半年、飲んだ。

飲んでいるあいだも、ベルが鳴れば、来た。

頻度も、強さも、変わらなかった。

医者は、最後にこう言った。

原因が、特定できないものも、あります。

わたしは、その言葉を、帰りの電車の中で、何度も思い出した。

匙を投げた言葉ではなかった。

誠実な言葉だと思った。

それでも、帰り道は重かった。

原因がわかれば、対処ができる。

対処ができなくても、名前がつけば、それを持って生きていける。

名前のないものを四十年抱えるというのは、そのどちらでもない場所に、居続けることだった。

今世には、何もない。

生まれてから四十二年のどこにも、あのベルに対応する出来事はない。

探し方が足りないのではない。

単に、ない。

誰も、証言できない。

第五章 連れて歩く

四十を過ぎて、わたしは探すのをやめた。

やめると決めたわけではない。

ある夜、店を閉めたあと、黒電話の前に座って、ふと思ったのだ。

これは、梅雨の湿気みたいなものかもしれない。

湿気に、原因を探す人はいない。

来るとわかっているから、除湿機を出して、窓を閉めて、過ぎるのを待つ。

恨まないし、治そうともしない。

来なくなったわけではない。

いまも、同じように来る。

強さも、変わらない。

変わったのは、来ているあいだに「なぜ」と考えなくなったことだけだ。

戸惑いは、減らない。

来るたびに、わたしは戸惑う。

どうして、と思う。

けれど、戸惑うことも含めて、これがわたしだと、少しだけ思えるようになった。

わからないまま、戸惑いながら、連れて歩く。

それが、四十二年のあいだに、わたしにできるようになったことだった。

黒電話の前で、わたしは、しばらく動かなかった。

店の外の雨が、まだ、止まなかった。

エピローグ

翌日の午後も、わたしは、作業台に向かっていた。

娘は、座敷で、ノートを開いていた。

黒電話が、鳴りだした。

じりりりん。

来た。

腹の底が、ぐっと熱くなった。

相手はいない。

理由もない。

わたしは、ドライバーを置いた。

けれど、耳をふさぐことは、しなかった。

娘が、立ち上がりかけた。

わたしは、手で、それを止めた。

自分で、受話器を取った。

もしもし、鍵屋です、と言った。

声は、少し震えていた。

用件を聞いて、メモを取った。

受話器を置いたあとも、腹は、まだ熱かった。

何も解決していない。

明日も、来年も、また鳴る。

わたしは、娘のほうを見て、うなずいた。

娘は、ノートに、小さく、一本の線を書き足した。

ソウルミッション358

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