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4_皿の割れる夜

皿が割れる音を聞くと、理由のわからないいかりが腹の底から来る保線員。姉にも父の友人にも産業医にも聞いたが、今世に原因はない。答えは出ない。誰も証言できない。探すのをやめ、わからないまま連れて歩く。

4_皿の割れる夜

朗読で聴く

第一章 十月の線路

大分の山あいの町で、線路の保守をしている。

わたしは五十八になる。

保線員になって、三十七年がたった。

仕事は、線路の見回りだ。

夜、列車が止まったあとの線路を、懐中電灯を持って、歩く。

レールの継ぎ目、枕木のゆるみ、砂利の沈み。

小さな異常を、見つけて、直す。

誰にも気づかれない仕事だ。

列車が無事に走るのは、当たり前だと思われている。

けれど、その当たり前を支えるために、夜ごと、誰かが線路を歩いている。

わたしは、その誰かの一人だ。

夜の線路は、昼とは、別のものだ。

レールが、月の光を受けて、細く光る。

遠くで、犬が鳴く。

わたしの足音だけが、砂利の上で、規則正しく響く。

その音を聞いていると、頭の中が、静かになる。

十月の、よく晴れた夜だった。

月が明るくて、懐中電灯がいらないほどだった。

見回りを終えて、わたしは、町外れの家に戻った。

古い平屋で、六つ上の姉と、二人で暮らしている。

姉は、独り者で、市の給食センターで働いて、去年、定年になった。

長く、大勢の子どもの昼ごはんを、作ってきた人だ。

大きな鍋をかき混ぜる腕は、いまも、わたしより太い。

台所のあかりが、ついていた。

姉が、夕飯の片づけをしていた。

戸を開けたとき、台所のほうで、がしゃん、と音がした。

皿が、流しの中で、割れた音だった。

その音を聞いた瞬間、腹の底が、ぐっと熱くなった。

第二章 割れた音の前に

それは、まぎれもなく、いかりだった。

わたしは、玄関に立ったまま、動けなかった。

姉が、台所から、顔を出した。

ごめんね、手が滑ってね、と言った。

わたしは、頷いた。

声が出なかった。

相手はいない。

姉に腹を立てたわけではない。

皿にも、夜にも、自分にも、いかりの向かう先がない。

向かう先のないものが、腹の底にだけ、はっきりとある。

三分ほど、そのまま立っていた。

姉は、何も言わずに、割れた皿を拾っていた。

小さな破片が、新聞紙の上で、かちゃかちゃと鳴った。

その音で、もう一度、腹が熱くなった。

皿が割れる音は、子どものころから、そうだった。

物心がつく前から、わたしは、その音を聞くと、体が固まった。

母が、よく言っていた。

この子は、赤ん坊のときから、割れ物の音で、顔を真っ赤にして泣いた、と。

頭は、いつも、静かだ。

皿が割れるのは、ありふれたことだと、知っている。

誰も怪我をしなかったことも、見ればわかる。

それなのに、体のほうが、先に動く。

音が意味になる前に、もう、腹の底が動いている。

わたしは、ときどき、この体の中に、わたしの知らない人が住んでいるように感じる。

その人が、皿の音で、勝手に目を覚ます。

名前も、顔も、わからない。

第三章 姉が数えるもの

姉の登志子は、小銭を数えている。

台所の隅に、空き缶があって、そこに釣り銭を貯めている。

月の終わりに、缶をひっくり返して、一枚ずつ数える。

今月は、いくら貯まったか。

去年より、増えたか、減ったか。

帳面に鉛筆で、書きつける。

姉は、几帳面で、物を大事にする人だ。

わたしは、いかりが来た日の数を数えている。

数えたくて数えているのではない。

来ると、覚えてしまう。

五十年ぶんが、頭のどこかに積んである。

何の役にも立たないし、誰にも渡せない。

同じ家に暮らしている姉と弟が、まったく別のものを数えていた。

姉の数字は、帳面に残る。

わたしの数えているものは、どこにも書けない。

一度だけ、姉に話したことがある。

皿の割れる音を聞くとな、変な感じになるんよ、と。

姉は、びっくりしたんやろ、と言った。

それで終わった。

説明のつかないものを人に話すと、必ず、いちばん近い説明が返ってくる。

驚いたから。

疲れているから。

年だから。

どれも近いが、どれも違う。

近いものを渡されるたびに、わたしは少しずつ黙るようになった。

黙るのは、諦めたからではない。

言えば言うほど、自分の中の本当のかたちが、削られていく気がしたからだった。

姉は、それを察したのか、それ以降は、皿を扱うとき、少しだけ、そっと置くようになった。

あの人なりの、静かな対応だったと思う。

夕飯のあと、二人で、黙って茶を飲む時間がある。

テレビの音だけが、部屋の中で、小さく鳴っている。

わたしは、その時間が、嫌いではない。

第四章 誰も知らなかった

原因は、探した。

まず、姉に聞いた。

小さいころ、皿にまつわる怖いことが、うちにあったか、と。

姉は、記憶を探すように、天井を見上げて、それから、ないよ、と言った。

父の古い友人にも、会いに行った。

父が亡くなったあと、墓参りのついでに、昔の話を聞かせてもらった。

戦後すぐの、この町の話を、たくさん聞いた。

けれど、割れ物にまつわる話は、一つも出てこなかった。

五十のとき、会社の産業医に、相談した。

睡眠のことや、いらいらのことを、一通り聞かれた。

血圧や、耳や、頭の検査をした。

どこにも、異常はなかった。

産業医は、少し考えてから、こう言った。

原因が、特定できないものも、あります。

わたしは、その言葉を、帰りの電車の中で、何度も思い出した。

匙を投げた言葉ではなかった。

誠実な言葉だと思った。

窓の外を、夜の線路が、ゆっくりと流れていった。

わたしが三十七年、歩いてきた線路だった。

その線路の脇に、薄の穂が、風に揺れていた。

わたしは、窓におでこを当てて、それを見ていた。

原因がわかれば、対処ができる。

対処ができなくても、名前がつけば、それを持って生きていける。

名前のないものを五十年抱えるというのは、そのどちらでもない場所に、居続けることだった。

今世には、何もない。

生まれてから五十八年のどこにも、あの音に対応する出来事はない。

探し方が足りないのではない。

単に、ない。

誰も、証言できない。

第五章 連れて歩く

五十五を過ぎて、わたしは探すのをやめた。

やめると決めたわけではない。

ある夜、線路を歩きながら、ふと思ったのだ。

これは、線路の継ぎ目みたいなものかもしれない。

継ぎ目に、理由を探す人はいない。

そこにあるとわかっているから、歩幅を合わせて、またいで、進む。

恨まないし、なくそうともしない。

来なくなったわけではない。

いまも、同じように来る。

強さも、変わらない。

変わったのは、来ているあいだに「なぜ」と考えなくなったことだけだ。

戸惑いは、減らない。

来るたびに、わたしは戸惑う。

どうして、と思う。

けれど、戸惑うことも含めて、これがわたしだと、少しだけ思えるようになった。

わからないまま、戸惑いながら、連れて歩く。

それが、五十八年のあいだに、わたしにできるようになったことだった。

その夜、わたしは、懐中電灯を消して、月明かりの線路を、しばらく歩いた。

空の端が、白くなる気配は、まだなかった。

エピローグ

翌日の夜、わたしは、また家に戻った。

台所のあかりが、ついていた。

姉が、木の盆に、湯呑みを二つ、載せていた。

戸を開けたとき、がしゃん、と音がした。

また、皿が割れた。

来た。

腹の底が、ぐっと熱くなった。

相手はいない。

理由もない。

わたしは、玄関に立ったまま、動かなかった。

けれど、逃げなかった。

姉が、ごめんね、と言った。

わたしは、いいよ、と答えた。

三分ほどで、引いていった。

何も解決していない。

来月も、来年も、また来る。

わたしは、靴を脱いで、台所へ上がった。

姉の隣にしゃがんで、割れた皿の破片を、一つずつ、拾った。

ソウルミッション358

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