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1_警報の鳴る踏切

踏切の警報を聞くと、理由のわからないいかりが腹の底から来るみかん農家。夫にも母にも町の古老にも医者にも聞いたが、今世に原因はない。答えは出ない。誰も証言できない。探すのをやめ、わからないまま連れて歩く。

1_警報の鳴る踏切

朗読で聴く

第一章 十一月の山の畑

和歌山の山の斜面で、みかんを作っている。

わたしは六十六になる。

嫁いで四十五年、この畑で暮らしてきた。

段々になった畑が、海のほうへ向かって落ちている。

どの段にも、みかんの木が並んでいる。

木は、夫の祖父が植えたものだという。

十一月は、収穫の季節だ。

朝は冷え込んで、軍手の指先がかじかむ。

昼になると、日が当たって、背中が汗ばむ。

木から実をもぎ、腰に提げた籠に入れ、籠がいっぱいになったら、木の箱にあける。

その繰り返しを、日が暮れるまで続ける。

指の腹に、みかんの皮の油が染みて、夜になっても、甘い匂いが取れない。

その匂いは、わたしには、季節の匂いだ。

風呂に入っても、布団に入っても、まだ手に残っている。

畑の下のほうを、一本の線路が走っている。

単線で、一日に何本も通らない。

線路を横切る小さな踏切が、畑から町へ下りる道の途中にある。

その日の午後、わたしは、箱を軽トラックに積んで、坂を下りていった。

夫は、上の段で、まだ摘んでいた。

踏切に近づいたとき、遮断機の前で、警報が鳴りはじめた。

かん、かん、かん、かん。

その音を聞いた瞬間、腹の底が、ぐっと熱くなった。

第二章 音が先に来る

それは、まぎれもなく、いかりだった。

わたしは、ブレーキを踏んだ。

車が止まった。

両手が、ハンドルを握りしめていた。

相手はいない。

誰かに腹を立てたわけではない。

電車にも、踏切にも、遅れている収穫にも、いかりの向かう先がない。

向かう先のないものが、腹の底にだけ、はっきりとある。

電車は、ゆっくり通り過ぎた。

二両だけの、小さな電車だった。

遮断機が上がった。

わたしは、動けなかった。

三分ほどして、やっと、アクセルを踏んだ。

踏切の警報は、子どものころから、そうだった。

実家の近くにも、線路があった。

あの音を聞くと、いつも、腹が熱くなった。

学校の帰りに、わざわざ遠回りをして、踏切を避けたこともある。

大人になって、嫁いで、この畑の下にも踏切があると知ったとき、どうしようかと思った。

けれど、ほかに行く場所はなかった。

頭は、いつも、落ち着いている。

あれが、電車の来る合図にすぎないことは、わかっている。

それなのに、体のほうが、先に動く。

音が耳に入って、意味になる前に、もう腹の底が動いている。

自分の体なのに、自分が最後に知る。

わたしは、ときどき、この体を借り物のように感じる。

六十六年使ってきて、隅々まで自分のものだと思っている。

それなのに、ここだけ、他人の設定が入っている。

誰が入れたのかも、いつ入れたのかも、わからない。

第三章 夫が数えるもの

夫の満は、木箱の数を数えている。

今年は何箱、去年は何箱。

どの段のどの木が、よく実をつけたか。

夜、炬燵に入って、鉛筆で手帳に書きつける。

その手帳は、もう二十冊を超えている。

満は、悪い人ではない。

寡黙で、働き者で、わたしの体のことを、何も聞かない。

わたしは、警報が鳴った回数を数えている。

数えたくて数えているのではない。

来ると、覚えてしまう。

六十年ぶんが、頭のどこかに積んである。

何の役にも立たないし、誰にも渡せない。

同じ家に暮らしている二人が、まったく別のものを数えていた。

満の数字は、出荷に使える。

わたしの数えているものは、どこにも使えない。

一度だけ、満に話したことがある。

踏切の音を聞くとな、変な感じになるんよ、と。

満は、箱を縛る手を止めずに、そうか、疲れとるんやな、と言った。

それで終わった。

説明のつかないものを人に話すと、必ず、いちばん近い説明が返ってくる。

疲れ、年のせい、神経。

どれも近いが、どれも違う。

近いものを渡されるたびに、わたしは少しずつ黙るようになった。

黙るのは、諦めたからではない。

言えば言うほど、自分の中の本当のかたちが、削られていく気がしたからだった。

満は、それを察したのか、それ以上は、聞かなくなった。

夜、炬燵の中で、わたしが黙っていても、満は、何も言わない。

ただ、湯呑みに、熱い茶を注いでくれる。

言葉のかわりに、湯気が、二人のあいだに立つ。

代わりに、踏切のある日は、先に軽トラックで下りてくれるようになった。

あの人なりの、正しい対応だったと思う。

第四章 縁のない家

原因は、探した。

まず、満に聞いた。

満の家に、踏切や、電車にまつわる事故の話はないか、と。

満は、ないな、と言った。

満の家は、この山で、何代も続いたみかん農家だ。

事故も、事件も、鉄道に関わった人も、一人もいなかった。

実家の母にも、電話をかけた。

母は、もう八十八になる。

わたしが生まれる前に、線路の近くで何か怖いことがなかったか、と聞いた。

母は、少し黙って、なかったよ、と言った。

それから、あんたは小さいころから、あの音をいやがっとったな、と言った。

それだけだった。

町の古い人にも、聞いて回った。

昔、この踏切で、大きな事故があったのではないか、と。

誰も、そんな話は知らなかった。

五十のとき、病院にも行った。

内科では、何も出なかった。

耳の検査も、頭の検査も、異常はなかった。

紹介された心療内科で、音に敏感な体質かもしれないと言われた。

けれど、それ以上のことは、言われなかった。

医者は、最後にこう言った。

原因が、わからないものもあるんです。

わたしは、その言葉を、帰り道の電車の中で、何度も思い出した。

匙を投げた言葉ではなかった。

誠実な言葉だと思った。

それでも、窓の外を過ぎていく畑が、いつもより遠く見えた。

今世には、何もない。

生まれてから六十六年のどこにも、あの音に対応する出来事はない。

探し方が足りないのではない。

単に、ない。

誰も、証言できない。

第五章 連れて歩く

六十を過ぎて、わたしは探すのをやめた。

やめると決めたわけではない。

ある年の収穫の終わりに、満と二人で、箱を縛りながら、ふと思ったのだ。

これは、冬の寒さみたいなものかもしれない。

寒さに、原因を探す人はいない。

来るとわかっているから、手袋をして、炬燵を出して、過ぎるのを待つ。

恨まないし、治そうともしない。

来なくなったわけではない。

いまも、同じように来る。

強さも、変わらない。

変わったのは、来ているあいだに「なぜ」と考えなくなったことだけだ。

戸惑いは、減らない。

来るたびに、わたしは戸惑う。

どうして、と思う。

けれど、戸惑うことも含めて、これがわたしだと、少しだけ思えるようになった。

わからないまま、戸惑いながら、連れて歩く。

それが、六十六年のあいだに、わたしにできるようになったことだった。

その晩、満は、炬燵で手帳を開いていた。

わたしは、その向かいで、黙ってお茶を飲んだ。

窓の外は、暗いままだった。

エピローグ

翌日も、わたしは、箱を積んで、坂を下りた。

踏切の手前で、警報が鳴りはじめた。

かん、かん、かん、かん。

来た。

腹の底が、ぐっと熱くなった。

相手はいない。

理由もない。

わたしは、ブレーキを踏んだ。

けれど、その日は、車を止めたまま、手をハンドルから離した。

膝の上に置いて、ただ、待った。

二両の電車が、ゆっくり通り過ぎていった。

何も解決していない。

明日も、来年も、また来る。

遮断機が上がった。

わたしは、静かにアクセルを踏んで、町へ下りていった。

ソウルミッション358

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