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8_液の中の像

喜びを顔に出せず人を遠ざけてきたと思う暗室の写真屋に、老婦人が、液の中をじっと見つめる背中が好きで毎年頼みに来ると差し出す。声が出なかったのは喜びが声より大きかったからだった。

8_液の中の像

朗読で聴く

第一章 暗室の朝

静岡の海辺の町で、写真屋をしている。

わたしは六十六になる。

この店を継いで、四十五年になる。

店の奥に、小さな暗室がある。

戸棚には、四十年ぶんの、薬品の瓶が、並んでいる。

ラベルは、手書きの字が、色あせている。

窓は、ない。扉は、二重になっている。

昼でも、夜でも、中は、同じ暗さだ。

時間の感覚が、ゆっくり、薄れていく。

赤い、小さな灯りが、ひとつだけ、ともっている。

その灯りのしたで、わたしは、白黒の写真を、焼く。

いまは、デジタルの時代で、フィルムの写真を頼みに来る人は、ほとんどいない。

それでも、毎年、必ず来る客が、数人、いる。

その人たちのために、この店は、ある。

それでも、店を、閉めていない。

十月の朝、わたしは、暗室に入った。

台の上に、三つの、白い平らな皿が、並んでいる。

現像液と、停止液と、定着液が、それぞれ、入っている。

印画紙を、液に、順に浸していく。

その日は、一人の老婦人が、頼んできた、写真を焼く日だった。

八十を過ぎた、近所の人だ。

毎年、この季節になると、一本のフィルムを持って、店に来る。

亡くなった夫と、昔、歩いた海岸を、毎年、撮っているのだという。

わたしは、そのフィルムを、現像してあった。

引き伸ばし機に、ネガを挟み、光を当てた。

印画紙を、液の中に、滑らせた。

それから、じっと、液の中を、見つめた。

第二章 黙る背中

現像は、静かな仕事だ。

液の中の、白い紙に、像が、ゆっくり、浮かんでくる。

その瞬間を、じっと、待つ。

何秒、何十秒、動かずに、立っている。

わたしは、そのあいだ、息を止めてしまう。

それが、わたしの、癖だ。

弟子を、とったことは、ない。

一人で、四十五年、この仕事をしてきた。

妻は、わたしのことを、何を考えているか、わからない人だと、言った。

暗室に入ると、何時間も、出てこない。

出てきても、何も、話さない。

妻は、そんなわたしに、疲れたのだろう。

十年前に、家を出ていった。

わたしは、それを、引き止められなかった。

玄関の戸が、静かに閉まる音を、いまでも、覚えている。

言葉が、出てこなかったのだ。

あのとき、何か、ひとことでも、言えていたら、と思うことがある。

無口な自分が、人を、遠ざけているのだと、思ってきた。

喜びも、悲しみも、顔に出ない。

ただ、液の中を、黙って見つめるだけの、つまらない男だと。

同じ町に、もう一軒、写真屋がある。

その店は、駅前の、明るい通りに、ある。

ガラスの扉の向こうに、きれいなカメラが、並んでいる。

若い店主が、継いだ店で、最新のカメラと、プリンターを、揃えている。

若い店主は、毎月の、注文の数を、数えている。

わたしは、数えない。

数える注文が、ほとんど、ないのだ。

第三章 像が浮かぶ

その日、液の中に、像が、浮かんできた。

最初は、灰色の、もやだった。

それが、少しずつ、濃くなっていった。

海岸線が、現れた。波打ち際の、白い泡が、現れた。

砂の上の、小さな足跡が、現れた。

老婦人が、毎年、夫と歩いた道の、足跡だった。

遠くの、岬の影が、現れた。

それから、一本の、流木が、砂の上に、横たわっていた。

その流木の上に、小さな、鳥が、とまっていた。

羽を、ふくらませて、海のほうを、見ていた。

その瞬間、わたしは、息を止めた。

鳥が、いたのだ。

撮った本人も、気づいていなかった。

老婦人は、海岸の景色を撮ったつもりで、シャッターを切った。

その偶然が、フィルムの上に、残っていた。

三十秒前まで、白かった紙の上に、命が、浮かんできた。

わたしは、声が、出なかった。

息を呑む音だけが、暗室の闇に、響いた。

わたしは、そのまま、液の中の像を、見つめ続けた。

液の表面が、かすかに、揺れた。

赤い灯りが、その揺れを、ゆっくり、なぞっていた。

どれくらい、時間がたったのか、わからない。

停止液に移すのを、忘れそうになった。

慌てて、紙を、持ち上げた。

扉の外で、誰かが、ノックをした。

わたしは、はい、と答えた。

声が、かすれていた。

第四章 老婦人の話

暗室を出ると、老婦人が、店の椅子に、座っていた。

焼き上がりを、待っていたのだ。

わたしは、まだ、湿っている、印画紙を、差し出した。

老婦人は、それを受け取って、じっと、見た。

それから、流木の上の、鳥に、気づいた。

あら、と言った。

それから、静かに、笑った。

夫が、鳥が好きでね、と言った。

わたしは、うなずいた。

老婦人は、写真を、胸に、あてた。

その肩が、小さく、震えていた。

それから、静かに、息を吐いた。

それから、わたしの顔を、見て、言った。

あなたは、不思議な人ね。

わたしは、聞き返した。

老婦人は、続けた。

毎年、ここに頼みに来るのは、あなたの背中を見たいからなの。

わたしは、驚いた。

老婦人は、暗室の扉のほうを、指さした。

あの扉が、少し開いているでしょう。

焼いているとき、隙間から、見えるのよ。

あなたが、液の中を、じっと見つめている背中。

息をするのも、忘れているみたいな背中。

あれを見ていると、わたしは、夫のことを、思い出すの。

夫も、そうだった。

大事なものの前では、黙る人だった。

あなたの背中を見に来るのが、わたしの、毎年の、楽しみなの。

わたしは、何も、言えなかった。

老婦人は、小さく、頭を下げて、店を出ていった。

第五章 黙る人の喜び

その夜、わたしは、店を閉めて、暗室に、一人で、座っていた。

暗室の壁は、四十年の薬品の匂いが、染みている。

その匂いが、わたしには、家の匂いだった。

赤い灯りが、ほのかに、壁を染めていた。

自分は、喜びを、顔に出せない人間だと、思ってきた。

無口で、人を、遠ざけてきたと。

でも、そうではなかった。

声が出なかったのは、喜びがなかったからではなかった。

喜びが、声よりも、大きかったからだった。

液の中に、像が浮かぶ。

その瞬間に立ち会える喜びが、体じゅうを、満たしていた。

その背中を、一人の老婦人が、毎年、見に来ていた。

わたしの沈黙は、人を遠ざけていたのではなかった。

誰かの、思い出に、寄り添っていた。

若い店主の注文の数は、店主の誇りだ。

わたしの息の止まる時間は、わたしの誇りだった。

どちらも、この町の写真の、生まれ方だった。

赤い灯りの下で、液の表面が、かすかに、揺れた。

わたしは、深く、息を吐いた。

エピローグ

次の年の十月、老婦人は、また、店に来た。

一本のフィルムを、持っていた。

わたしは、それを、受け取った。

暗室に、入った。

扉を、少しだけ、開けたままにした。

引き伸ばし機に、ネガを挟み、光を当てた。

印画紙を、液の中に、滑らせた。

それから、じっと、液の中を、見つめた。

背後で、老婦人が、静かに、椅子から立つ気配がした。

扉の隙間から、わたしの背中を、見ているのが、わかった。

わたしは、振り向かなかった。

息を、止めた。

液の中で、灰色のもやが、ゆっくり、濃くなっていった。

海が、現れた。空が、現れた。

わたしの口のはしが、ゆっくり、上がった。

暗くて、誰にも、見えなかった。

けれど、背中は、笑っていた。

ソウルミッション358

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