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6_川原に立つ人

声を出せない自分を暗い人間と恥じてきた蛍の観察員に、橋の上の老人が、毎年あんたが黙って立つ背中を見るのがわしの夏だったと差し出す。声が出なかったのは喜びが声より大きかったからだった。

6_川原に立つ人

朗読で聴く

第一章 六月の夜

滋賀の山あいの川で、蛍を数えている。

わたしは四十七になる。

市の環境課の、蛍の観察員になって、十五年がたった。

六月は、蛍の季節だ。

日が暮れると、川原に出て、飛ぶ蛍の数を、記録する。

懐中電灯は、使えない。

光が、蛍を、驚かせてしまうからだ。

初めて光る夜は、年によって、少しずつ違う。

その夜を、わたしは、毎年、待っている。

待つというのは、ただ、川原に立っていることだ。

懐中電灯は、消して、闇の中で、じっと、目を慣らす。

六月の第二週の、湿った夜だった。

梅雨の前の、むっとした空気が、川に、立ちこめていた。

川の水の音が、闇の中で、ささやくように、続いていた。

湿った草の匂いが、足もとから、立ちのぼっていた。

遠くの田んぼで、蛙が、ひっきりなしに、鳴いていた。

わたしは、川に架かる、小さな木の橋のたもとに、立っていた。

橋の向こうは、竹やぶで、真っ暗だった。

竹の葉が、風もないのに、さらさらと、鳴っていた。

そのとき、橋の上に、人影が、現れた。

杖をついた、小柄な老人だった。

八十を過ぎた、近所の男の人だ。

毎年、この季節になると、夕涼みに来て、橋の上で、じっと座っている。

老人は、わたしに、小さく会釈をした。

杖の先で、橋の板を、こつん、と一度だけ、鳴らした。

それが、毎年の、挨拶のようなものだった。

わたしも、会釈を返した。

それ以上は、何も、話さなかった。

第二章 声を出せない人

蛍の観察員は、静かな仕事だ。

話す相手も、いない。

夜の川原に、一人で、立つ。

それが、わたしには、合っていた。

子どものころから、人と話すのが、苦手だった。

給食の時間も、休み時間も、一人で、窓の外を見ていた。

窓の外には、いつも、山があった。

声が、小さくて、すぐに、聞き返される。

同級生には、暗いと言われた。

大人になっても、変わらなかった。

会議で意見を言うのも、苦手だった。

話しているうちに、声が、小さくなって、消えてしまう。

わたしは、それを、恥じていた。

感情を、うまく、外に出せない人間なのだと。

蛍が、初めて光る夜も、わたしは、いつも、黙って立っているだけだった。

胸の中は、いっぱいなのに、口から出てくる言葉が、ひとつもなかった。

美しいと、思う。

嬉しいと、思う。

でも、それを、誰にも、伝えられない。

同僚には、蛍の観察員は、誰でもできる仕事だ、と思われているらしい。

実際、数を数えるだけなら、誰でも、できるだろう。

わたしは、その仕事に、特別な何かを、持っているわけでは、ない。

第三章 数える同僚

同じ課に、若い職員がいる。

その青年は、いつも、パソコンの画面を、見ている。

川には、あまり、来ない。

二十代の、清水という青年だ。

清水は、蛍の数を、機械で、数えている。

カメラを設置して、自動で、光の数を、数えるのだという。

その数字は、正確で、早い。

去年から、市の報告書は、清水の数字で、作られるようになった。

わたしの数える数は、もう、使われない。

それでも、わたしは、川原に立つ。

足の裏に、湿った土の、冷たさが、伝わってくる。

その冷たさが、わたしを、この場所に、つなぎとめる。

あるとき、清水が、わたしに言った。

先生は、なぜ、まだ、現場に立つんですか。

機械が、全部、数えてくれるのに。

わたしは、うまく、答えられなかった。

ただ、立ちたいから、とだけ、言った。

清水は、不思議そうに、わたしを見た。

清水は、悪い青年ではない。

ただ、闇の中に立つ理由が、まだ、わからないだけだ。

同じ川を見ている二人が、別のものを、見ていた。

清水は、光の数を見て、わたしは、光る前の、闇を見ていた。

けれど、それが、誰かの役に立つとは、思えなかった。

第四章 橋の上の老人

その夜、十時を過ぎたころだった。

風が、止んでいた。

川の水の音だけが、闇の中で、くっきりと、聞こえた。

川の上の闇に、ひとつ、小さな光が、ともった。

淡い、緑がかった光が、ふわりと、浮かんだ。

それが、消えて、また、ともった。

一つ、二つ、三つ。

光は、少しずつ、増えていった。

今年の、最初の蛍だった。

わたしは、息を止めた。

声は、出なかった。

息を呑む音だけが、わたしの喉で、小さく鳴った。

そのとき、背中で、橋の板が、きしむ音がした。

老人が、ゆっくり、わたしのほうへ、歩いてきた。

杖の音が、闇の中で、こつこつと、響いた。

老人は、わたしの隣に、立った。

それから、小さな声で、言った。

あんたは、毎年、ここで、黙って立ってるな。

わたしは、驚いた。

見てたんですか、と言った。

毎年、橋の上から、見てた、と老人は言った。

あんたが、闇の中で、じっと立って、蛍が光るのを待つ背中を、見るのが、わしの夏だった。

わたしは、息をのんだ。

老人は、続けた。

蛍が光ると、あんたの背中が、ふっと、変わる。

肩が、すこし、ゆるむ。

その背中を見ると、ああ、今年も、夏が来たなあと、思うんや。

わしは、蛍より、あんたの背中を、見に来てるんかもしれん。

老人は、くすくす、笑った。

歯の少ない口が、闇の中で、白く、のぞいた。

わたしは、何も言えなかった。

川の闇の中で、蛍が、静かに、ふえていった。

光は、水面にも、映って、二つに、増えた。

上と下で、緑の光が、ゆらゆらと、呼応していた。

第五章 闇の中の喜び

老人が帰ったあと、わたしは、川原に、一人で、立っていた。

杖の音が、橋の板を、こつこつと、遠ざかっていった。

自分は、感情を、外に出せない人間だと思ってきた。

誰にも、伝わらない、暗い人間だと。

でも、そうではなかった。

声は、出なかった。

けれど、喜びは、背中に、出ていた。

肩が、ゆるむ、という形で。

それを、毎年、橋の上から、見ている人が、いた。

わたしの沈黙は、伝わっていなかったのではなかった。

伝わる形で、体に、出ていたのだ。

清水の機械は、光の数を、数える。

わたしは、光が、ともるのを、待っている人間として、立っていた。

その姿が、八十の老人の夏に、なっていた。

わたしは、闇の中で、深く、息を吸った。

蛍の光が、川面に、ゆらゆらと、映っていた。

エピローグ

翌日の夜、わたしは、また、川原に立った。

橋のたもとに、老人が、すでに、座っていた。

わたしは、橋に上がった。

老人の隣に、そっと、腰を下ろした。

二人は、何も言わずに、川を見た。

川の音だけが、二人のあいだを、流れていた。

橋の板は、夜露で、しっとりと、濡れていた。

その冷たさが、座った腰に、じわりと、伝わった。

闇の中に、蛍が、ひとつ、ふたつ、ともった。

光は、水面に、逆さに映って、ゆっくり、揺れた。

やがて、十、二十と、増えていった。

わたしは、肩の力が、すっと、抜けるのを、感じた。

足の裏が、橋の板に、ぴたりと、ついた。

老人が、横目で、わたしを見た。

それから、ふっと、笑った。

わたしも、笑った。

清水が、遠くの土手から、手を振っていた。

カメラの前で、立ちつくして、光る川を、じっと、見ていた。

その背中が、わたしの背中に、少し、似ていた。

ソウルミッション358

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