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5_黙って立つ先生

声も顔も変わらない自分を保育士失格の欠点と恥じてきた保育士に、母親が、先生が黙って立っていたから泣いていいと思えたと差し出す。声が出なかったのは喜びが声より大きかったからだった。

5_黙って立つ先生

朗読で聴く

第一章 九月の園庭

千葉の海に近い町の、保育園で働いている。

わたしは三十四になる。

保育士になって、十二年がたった。

いまは、一歳児のクラスを、受け持っている。

十二人の子どもたちと、毎日、過ごしている。

一歳の子どもは、毎日、何かを、初めてする。

初めて、笑う。初めて、つかまり立ちをする。初めて、言葉を言う。

わたしは、その瞬間に、立ち会う仕事をしている。

初めて、というのは、一度しか、来ない。

その一度に、立ち会えることが、この仕事の、いちばんの贈り物だと思う。

九月の、残暑の朝だった。

園庭の砂場に、朝の光が、白く落ちていた。

子どもたちの、小さな笑い声が、あちこちで、はじけていた。

潮風が、園庭の木の葉を、さわさわと、揺らしていた。

わたしは、クラスの子どもたちと、庭に出ていた。

園庭の隅に、木でできた、小さな押し車が、置いてある。

つかまり立ちをする子が、それを押して、歩く練習をするための、車だ。

一歳になって、まだ歩けない子が、一人いた。

翔くんという、男の子だ。

十三か月になるのに、まだ、一人で、一歩も、歩いたことがなかった。

母親は、毎朝、心配そうに、わたしに聞く。

まだ、歩きませんか、と。

わたしは、大丈夫ですよ、と答える。

その子のペースがありますから、と。

その朝、わたしは、翔くんを、押し車の前に、立たせた。

押し車のハンドルを、握らせた。

それから、そっと、手を離した。

第二章 声の出ない保育士

わたしは、保育士として、ひとつ、気になっていることがある。

子どもが、初めて何かをしたとき、声が出ないことだ。

先輩の保育士は、すごいね、えらいね、と大きな声で、子どもを褒める。

その声は、園庭じゅうに、明るく響く。

子どもは、その声を聞いて、ぱっと、顔を輝かせる。

その声が、子どもを、さらに、元気にする。

わたしは、子どもが、初めて何かをしたとき、声が、のどでつかえてしまう。

息が、止まって、ただ、黙って、見ている。

保護者に、そのことを、心配されたこともある。

先生は、あまり、喜んでくださらないんですね、と言われた。

わたしは、そのとき、何も言い返せなかった。

喜んでいないわけでは、ない。

けれど、それを、声や表情に変えることが、うまくできない。

保育士として、致命的な欠点だと思っていた。

子どもの喜びを、一緒に、喜べない人間なのではないか、と。

夜、眠る前に、考えることもあった。

布団の中で、今日の子どもたちの顔を、一人ずつ、思い返す。

それから、自分の無表情を、思って、ため息をついた。

この仕事に、向いていないのではないか、と。

それでも、辞められなかったのは、子どもたちの笑顔が、好きだったからだ。

第三章 園長が数えるもの

同じ園に、ベテランの保育士がいる。

その人は、園の子どもたち全員の、名前と、誕生日と、好きな食べ物を、覚えている。

わたしは、いまだに、その域に、届かない。

五十代の、田中先生だ。

田中先生は、子どもたちの成長の記録を、毎日、丁寧に、つけている。

いつ、何ができるようになったか、手帳に、細かく書いている。

その手帳は、もう、何十冊にもなったと言っていた。

わたしの記録は、簡単だ。

今日の天気と、子どもたちの機嫌と、食べたものだけ。

あるとき、田中先生が、言った。

あなたは、子どもを見る目が、すごいわね。

わたしは、驚いた。

そうでしょうか、と言った。

あなたは、記録は少ないけれど、子どもの変化に、誰より早く気づく、と田中先生は言った。

どうしてなのか、考えてみたことがあるの、と言った。

あなたは、黙って、見ているからだと思うわ。

わたしは、そのときは、その意味が、よくわからなかった。

同じ園で、同じ子どもたちを見ている二人が、別のものを、見ていた。

田中先生は、子どもの成長を、書き留めていた。

わたしは、子どもの瞬間を、黙って、見ていた。

第四章 母親の話

その朝、翔くんは、押し車を、握っていた。

わたしは、数歩、離れた場所に、しゃがんだ。

翔くんは、じっと、わたしの顔を、見た。

それから、ゆっくり、押し車を、押した。

一歩。

押し車が、ごとりと、前へ進んだ。

翔くんの足が、地面から、離れた。

二歩。

翔くんは、押し車から、手を、離した。

そして、立った。

両手を、ふわりと、広げて、揺れながら、立った。

わたしは、息を止めた。

声は、出なかった。

三歩目が、あった。

翔くんは、わたしのほうへ、ふらふらと、歩いてきた。

わたしの膝に、倒れ込んだ。

わたしは、翔くんを、抱きとめた。

小さな体は、あたたかくて、少し、汗ばんでいた。

胸の中で、心臓が、とくとくと、速く打っていた。

それでも、声は、出なかった。

園庭の端に、翔くんの母親が、立っていた。

迎えに来て、その瞬間を、見ていたのだ。

母親は、口を両手で覆って、泣いていた。

その夕方、母親が、わたしのところへ来て、言った。

夕日が、園庭の砂場を、赤く染めていた。

先生、今日は、ありがとうございました。

わたしは、いえ、と首を振った。

母親は、続けた。

あのとき、先生が、何も言わずに、じっと立っていたでしょう。

わたし、あの背中を見て、思ったんです。

ああ、泣いていいんだって。

先生が、あんなに静かに、全部を受けとめてくれているから、わたしは、思いきり、泣けたんです。

もし、先生が、すごいね、えらいね、と大きな声で言っていたら、きっと、わたしは、泣けなかった。

わたしは、何も言えなかった。

第五章 静けさの理由

その夜、わたしは、園の事務室で、日誌を書いていた。

外では、虫の声が、ひっそりと、鳴いていた。

自分は、子どもの喜びを、一緒に喜べない保育士だと思ってきた。

声が出ない、表情が動かない、欠点のある人間だと。

でも、そうではなかった。

声が出なかったのは、喜んでいなかったからではなかった。

喜びが、声より、大きかったからだった。

その大きな喜びが、静けさになって、母親を、包んだ。

泣いていい、という場所になった。

田中先生の記録は、田中先生の誇りだ。

わたしの沈黙は、わたしのやり方だった。

どちらも、子どもたちが、育つ場所になっていた。

日誌の、今日の欄に、天気と、機嫌と、食べたものを、書いた。

それから、いつもは書かない一行を、足した。

翔くんが、三歩、歩いた、と。

エピローグ

翌朝、園庭に出た。

翔くんが、押し車の前で、待っていた。

わたしを見ると、にこっと笑った。

それから、押し車から、手を離した。

一歩、二歩、三歩。

翔くんは、わたしに向かって、まっすぐに歩いてきた。

わたしは、しゃがんで、両手を広げた。

声は、やっぱり、出なかった。

けれど、顔が、勝手に、笑っていた。

翔くんが、わたしの腕の中に、飛び込んだ。

その背中の向こうで、田中先生が、手帳に、何かを書いていた。

顔を上げて、わたしを見て、小さく、うなずいた。

門のところで、母親が、手を振っていた。

わたしは、翔くんを抱いたまま、母親に、手を振り返した。

ソウルミッション358

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