4_息をしない三分
糸を引くあいだ息が止まるのを怯えの癖と恥じてきた製糸の師匠に、見習いの娘が、その背中を見てこの仕事を続けると決めたと差し出す。息が止まるのは喜びが息より大きかったからだった。

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第一章 繭の朝
群馬の山すその町で、絹糸を引いている。
わたしは五十六になる。
この仕事を始めて、三十八年になる。
生糸を作るのが、わたしの仕事だ。
蚕が作った繭を、湯に浸して、ほぐす。
そこから、細い一本の糸を、引き出していく。
その糸が、絹糸になる。
作業場には、大きな釜が、ずらりと並んでいる。
釜の下には、小さな火が、ちろちろと、燃えている。
湯の温度は、指の先で、確かめる。
釜の中の湯は、ゆらゆらと、湯気を立てている。
五月の朝、作業場の窓は、半分開いていた。
窓の外で、燕が、軒先を、すいと、横切った。
山から、新緑の匂いが、入ってきた。
わたしの隣には、見習いの娘が、座っていた。
二十二になる、美咲という子だ。
去年の春に、東京から来て、わたしの弟子になった。
娘は、釜の前で、背筋を伸ばしていた。
その日は、特別な繭を、引く日だった。
山の農家が、丁寧に育てた、春の蚕の繭だった。
籠の中に、白い繭が、山のように盛られていた。
繭は、軽くて、手のひらに乗せると、ほとんど、重さを感じない。
その中に、千メートルの糸が、眠っている。
一粒一粒、ほんのり、光っていた。
わたしは、その籠を、釜のそばに引き寄せた。
それから、ひとつを、湯の中に、落とした。
第二章 緊張する手
絹糸を引くのは、息を詰める仕事だ。
繭の糸は、一本で、千メートル以上ある。
それを、途中で切らさずに、引き出さなければならない。
糸が切れれば、最初からやり直しだ。
やり直しになった日は、一日、何もできなかったのと、同じだ。
そんな日が、年に、何十日も、ある。
だから、手を動かしているあいだ、わたしは、自然に、息を止めてしまう。
わたしは、それが、恥ずかしかった。
若いころ、先輩の職人に、笑われた。
あんたは、糸を引くとき、息をしないね。
そんなに固くなっては、いい糸は引けないよ、と言われた。
それ以来、息を止める癖を、直そうとしてきた。
湯気の中で、深呼吸をして、自分に言い聞かせた。
ゆっくり、軽く、息をしながら、と。
けれど、直らなかった。
いまでも、糸を引き始めると、息が止まる。
長いときには、三分近く、息をしていないこともある。
それが、いけないことだと、思ってきた。
いい糸は、いい呼吸から、生まれる、と師匠は言った。
わたしの呼吸は、いつも、止まっていた。
職人は、もっと、自然に、軽やかに、仕事をするものだ。
わたしの仕事ぶりは、まるで、何かに、怯えているようだ。
弟子の前で、そんな姿を見せたくなかった。
けれど、手を止めるわけにはいかない。
糸は、一度、引き始めたら、最後まで、引くしかない。
第三章 数える人
同じ町に、もう一人、糸を引く職人がいる。
町には、もう、糸を引く家が、三軒しか、残っていない。
その三軒が、競うように、いい糸を、引いてきた。
わたしと同じ年の、石井という男だ。
石井は、一日に、何グラム引けたか、毎日、量っている。
その重さを、帳面につけて、年ごとに、比べている。
あるとき、町の寄り合いで、石井が言った。
絹子さんは、引いた量を、量らんの。
わたしは、量らないよ、と答えた。
量っても、わからないから、と言った。
引いた糸の重さより、引いている間の、手の感じのほうが、わたしには大事だった。
石井は、不思議そうな顔をした。
同じ仕事をしている二人が、まったく、別のものを、見ていた。
石井は、重さを見て、わたしは、息の止まる三分を、見ていた。
どちらが、正しいということは、ない。
ただ、石井の帳面には、年ごとの数字が、きれいに並ぶ。
わたしの手帳には、天気しか、書いていない。
けれど、石井の帳面には、数字が残る。
わたしの息は、どこにも、残らない。
わたしは、そのことに、少しだけ、さびしさを、感じていた。
第四章 娘の話
その日の仕事は、夕方に、終わった。
窓の外の山が、夕日で、赤く、染まっていた。
作業場には、湯気の匂いと、繭の甘い匂いが、残っていた。
作業場の釜は、冷えて、静かになっていた。
わたしは、引き終えた糸を、枠に巻いて、棚に並べていた。
美咲が、後ろから、声をかけた。
先生。
わたしは、振り向いた。
娘は、湯の入った湯のみを、両手に持って、立っていた。
わたしに、それを差し出して、言った。
先生、今日、糸を引いているとき、息、してなかったですよね。
わたしは、どきりとした。
見てたのか、と聞いた。
はい、と娘は言った。
三分くらい。
わたし、数えてたんです。
恥ずかしかったよ、とわたしは言った。
娘は、首を振った。
違うんです、と言った。
わたし、東京の会社で、三年、働いていたんです。
毎日、息をするように、仕事をしていました。
早く、うまく、笑顔で。
それで、ある日、何をやっても、何も感じなくなったんです。
わたしは、黙って聞いた。
湯のみの中の、お茶が、ゆらゆらと、揺れていた。
娘は、続けた。
この町に来て、初めて先生の仕事を見た日、わたし、泣いたんです。
先生が、息を止めて、糸を引いている背中を見て。
ああ、この人は、ほんとうに、大事なものを、引いているんだって。
息をするのも、忘れるくらい。
あの背中を見て、わたしは、この仕事を続けると決めたんです。
わたしは、湯のみを受け取った。
湯気が、顔にかかって、目の奥が、ほんの少し、熱くなった。
あたたかかった。
第五章 息の止まる理由
その夜、わたしは、作業場の窓辺で、山の闇を見ていた。
遠くの田んぼから、蛙の声が、波のように、寄せてきた。
自分は、息を止める癖を、恥じてきた。
職人として、不器用な、欠点だと思ってきた。
でも、そうではなかった。
息が止まるのは、怯えているからではなかった。
一本の糸が、無事に引き出される。
その瞬間に、立ち会っているのだ。
嬉しくて、息をするのも、忘れていた。
繭の中から、千メートルの糸が、するするとほどけてくる。
その喜びに、体が、まるごと、のみ込まれていた。
それが、わたしの、息の止まる三分だった。
石井の量る重さは、石井の誇りだ。
わたしの息の止まる三分は、わたしの誇りだった。
どちらも、この町の絹の、生まれ方だった。
窓の外で、蛙が、鳴きはじめていた。
山の闇は、やわらかく、あたたかかった。
エピローグ
翌朝、わたしは、早く、作業場に入った。
釜の前に、美咲が、すでに座っていた。
湯気が、窓の光を、白く染めていた。
わたしは、籠から、繭をひとつ、取った。
それを、湯の中に、落とした。
繭が、ゆっくり、湯の中で、ほどけはじめた。
わたしは、糸の端を、そっと、つまんだ。
隣で、美咲が、同じように、繭を湯に落とした。
二人は、並んで、糸を引きはじめた。
釜の湯が、こぽこぽと、小さく、鳴っていた。
わたしは、息を止めた。
美咲も、息を止めた。
釜の湯気だけが、静かに、立ちのぼっていた。
三分の間、二人は、一度も、息をしなかった。
やがて、糸の端が、枠に、巻き取られた。
二人は、同時に、深く、息を吐いた。
そして、顔を見合わせて、少し、笑った。
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