2_蓋を取る朝
口下手を恥じてきた杜氏に、若い蔵人が、蓋を取って黙って立つ背中を見て一生この蔵にいると決めたと差し出す。声が出なかったのは喜びが声より大きかったからだった。

朗読で聴く
第一章 寒仕込み
福岡の小さな酒蔵で、杜氏をしている。
わたしは六十四になる。
この蔵に入って、四十六年になる。
十八のときに、蔵人として入り、杜氏になって、二十二年がたった。
酒造りは、冬の仕事だ。
十一月から三月まで、蔵に泊まり込んで、米を蒸し、麹を作り、酒を醸す。
一月は、いちばん寒い。
蔵の外の水たまりには、朝になると、薄い氷が張る。
手の指は、ひび割れて、赤くなる。
それでも、わたしは、この季節が、好きだ。
朝の蔵の中は、息が白くなるほど冷たい。
その冷たさが、いい酒を育てる。
蔵には、大きな桶が、いくつも並んでいる。
桶の底から、じわじわと、冷たさが、立ちのぼってくる。
その冷たさの中で、微生物たちは、静かに、働く。
杉でできた、わたしの背丈ほどもある桶だ。
その中で、米と水と麹が、ゆっくり酒になっていく。
わたしは、毎朝、桶の蓋を取って、中をのぞく。
香りは、日ごとに、変わっていく。
最初は、米の甘い匂い。それから、果物のような、華やかな匂い。
もろみの香りを嗅ぎ、泡の様子を見る。
それで、今日の仕事が、決まる。
その朝も、まだ暗いうちに、わたしは蔵に入った。
新しく仕込んだ桶が、ひとつあった。
三日前に、米と麹と水を合わせたばかりのものだ。
まだ、静かだった。
わたしは、長い木の櫂を、桶の脇に立てかけた。
それから、蓋の端に、手をかけた。
第二章 口下手な杜氏
わたしは、口が重い人間だ。
蔵の若い者に、ものを教えるのが、昔から下手だった。
こうしろ、と言うだけで、なぜそうするのかを、うまく説明できない。
年に一度の、酒の発表会でも、挨拶ができない。
壇上に立つと、頭が真っ白になる。
去年は、乾杯の音頭を頼まれたが、ありがとうございます、とだけ言って、降りてしまった。
会場が、少し、しんとした。
蔵の者が、慌ててフォローしてくれた。
あれ以来、わたしは、人前には出ないことにしている。
酒は、口ではなく、手で造るものだ。
そう思って、やってきた。
けれど、杜氏が口をきけないというのは、やはり、蔵にとって、不利なのだろうと思う。
若い者は、饒舌な先輩のほうに、なついていく。
営業の山本という男は、話が上手だ。
蔵の酒の、物語を、お客さんに、上手に語って聞かせる。
わたしは、それを、うらやましく聞いている。
取引先を回って、蔵の酒を、次々に売ってくる。
山本は、販売本数を、毎月、数えている。
その数字が、蔵の誇りになっている。
わたしは、数字は、数えない。
数えるのは、もろみの泡の様子だけだ。
それは、誰にも、見えない数字だ。
第三章 泡
その朝、蓋を取ると、桶の中が、変わっていた。
蔵の中の、空気までが、いつもと違って、やわらかかった。
三日前には、ただの白いどろどろだった。
それが、いま、細かな泡で、びっしり覆われていた。
泡は、白く、ふくらんで、桶のふちまで、盛り上がっていた。
高泡、と呼ばれる姿だ。
わたしの、杜氏としての、四十年のなかで、何百回と見てきたはずの姿だった。
けれど、その朝は、違って見えた。
泡の一つ一つが、小さな息をしているように見えた。
桶の中で、生きものたちが、働いていた。
小さな、小さな、数えきれない命が、夜どおし、働いていた。
誰に見られなくても、誰にも褒められなくても、休まずに。
目に見えない、無数の命が、米を、酒に変えていた。
わたしは、蓋を持ったまま、立ちつくした。
声は、出なかった。
息を呑む音だけが、冷たい蔵の中に、響いた。
わたしは、その場に、動かずに立っていた。
どれくらい、そうしていたのか、わからない。
泡が、かすかに、ぱちぱちと、音を立てていた。
その音が、桶の中の、拍手のように聞こえた。
蔵の入口の、戸が、きしむ音がした。
冷たい風が、足もとを、さっと、なでていった。
誰かが入ってきたが、わたしは、振り向かなかった。
第四章 若い蔵人
その日の夕方、蔵の休憩室で、わたしは、お茶を飲んでいた。
ストーブの上で、やかんが、しゅんしゅんと、鳴っていた。
窓の外は、もう、暗くなりかけていた。
若い蔵人の、拓海が入ってきた。
二十五になる青年で、三年前に、この蔵へ来た。
わたしの向かいに座って、少し、黙っていた。
それから、小さな声で、言った。
杜氏、今朝の桶のこと、いいですか。
わたしは、うなずいた。
拓海は、湯のみを両手で持って、続けた。
実は、今朝、蔵に入ったとき、杜氏が蓋を取って、立っているのを、見たんです。
わたしは、驚いた。
あれは、お前だったのか。
はい、と拓海は言った。
後ろから、ずっと、見ていました。
杜氏は、何も言わずに、桶の前に立っていた。
背中が、すごく、静かで。
でも、僕には、わかったんです。
杜氏、いま、すごく、嬉しいんだなって。
わたしは、息を止めた。
拓海は、まっすぐ、わたしを見た。
僕、実は、この冬で、蔵を辞めようと、思ってました。
給料も、少なくて。
友だちは、みんな、街で、楽しそうに、働いていて。
酒造りが、思っていたより、地味で、辛くて。
山本さんみたいに、人前で話して、売れる人になりたかった。
でも、今朝の杜氏の背中を見て、決めました。
一生、この蔵で、杜氏の隣にいようって。
あの背中の前に立てる人間になりたいって。
わたしは、何も言えなかった。
湯のみのお茶が、冷めていた。
第五章 言葉より大きい
その夜、わたしは、蔵の外の、縁台に座って、星を見ていた。
吐く息が、星の光の中で、白く、ほどけていった。
自分は、口下手な杜氏だと思ってきた。
言葉で、何も伝えられない人間だと。
でも、そうではなかった。
あの朝、声が出なかったのは、言葉が足りなかったからではなかった。
喜びが、言葉より、大きかったからだった。
桶の中の泡に、立ち会えた。
その喜びが、背中ごと、若者に伝わっていた。
言葉では、伝わらないものが、あった。
わたしは、それを、四十六年かけて、背中に、積んできたのだ。
山本の饒舌は、山本の仕事だった。
わたしの沈黙は、わたしの仕事だった。
どちらも、この蔵の、酒になっていた。
星が、冬の夜空に、冴え冴えと、並んでいた。
蔵の中から、もろみの甘い香りが、ほのかに、漂ってきた。
わたしは、その匂いを、胸いっぱいに吸った。
エピローグ
翌朝、わたしは、また、桶の前に立った。
隣に、拓海がいた。
わたしは、蓋の端に、手をかけた。
それから、拓海に、櫂を差し出した。
拓海は、目を見開いた。
蔵の中の、他の蔵人たちも、手を止めて、こちらを見た。
櫂入れを、杜氏が若い者にさせるのは、初めてのことだった。
拓海は、両手で、櫂を受け取った。
桶のふちに、足を踏ん張って、立った。
櫂を、そっと、もろみの中に、差し入れた。
泡が、ゆっくり、割れた。
甘い香りが、冷たい蔵の中に、ふわりと、広がった。
拓海の背中が、小さく、震えていた。
わたしは、その横に、黙って立った。
口では、何も、言わなかった。
わたしの口のはしが、上がっているのが、自分でも、わかった。
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