1_柱をなでる手
壊すことしかできない仕事と思ってきた解体の大工に、家主の孫が、柱をなでながら笑って泣いていたと差し出す。声が出なかったのは悲しみではなく、百年前の大工と触れた喜びが声より大きかったからだった。

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第一章 壊す仕事
奈良の古い町で、家を壊す仕事をしている。
わたしは五十五になる。
もとは大工だった。
二十代から、四十年近く、木の家を建ててきた。
十年前から、解体の仕事に移った。
建てる仕事が、減ったからだ。
古い家は、次々に空き家になり、そして、壊される。
わたしは、その家を、一軒ずつ、壊していく。
十一月の朝、わたしは、町外れの古い家の前に立っていた。
百年を超える、木造の平屋だった。
柱は太く、梁は、黒光りしていた。
子どもが走ると、廊下が、きゅっと鳴る家だったという。
瓦は、ところどころ、ずれている。
軒先の雨樋は、錆びて、赤茶色の染みを、壁に残していた。
戸は、傾いて、閉まらなくなっていた。
家主は、八十を過ぎたおばあさんで、いまは、施設にいる。
壊す日には、孫の少年が、立ち会いに来ていた。
十歳になる、真司という子だった。
学校を休んで、祖母の代わりに、家を見送りに来たのだという。
少年は、玄関の前で、じっと家を見ていた。
手に、小さな、麦茶の水筒を、にぎっていた。
祖母に、持たされたのだという。
わたしは、道具を並べながら、少年に声をかけた。
離れていてください、と言った。
少年は、小さくうなずいて、塀の外へ下がった。
背中が、いつもより、小さく見えた。
わたしは、梯子をかけて、屋根に上がった。
瓦を一枚ずつ、手で外した。
裏側に、百年前の土が、まだ、こびりついていた。
第二章 何も残らない
解体は、建てるのと、逆の順番で進む。
瓦を下ろし、土を落とし、屋根の下地の板を剥がす。
それから、梁を外し、柱を倒す。
一日で、一軒の家が、更地になる。
そのたびに、わたしは、家の匂いを、胸に覚えておく。
古い畳の匂い。煤けた梁の匂い。台所の土間の、湿った匂い。
その手際を、褒められることもある。
社長は、いつも、若い田村を、褒める。
わたしは、それを、横で、黙って聞く。
でも、わたしは、いつも、むなしかった。
四十年かけて覚えた技が、壊すことにしか使えない。
弟子を取ろうと思ったことも、ある。
けれど、壊すことを教えるのは、気が引けた。
建てた家は、何十年も残る。
壊した家は、一日で、跡形もなくなる。
わたしのしてきたことは、何も残らない。
そう思うと、この仕事が、ときどき、重く感じられた。
同じ会社に、若い職人がいる。
三十になる、田村という男だ。
重機の扱いがうまくて、作業が速い。
田村は、一日の作業時間を、毎回、数えている。
去年より、どれだけ早くなったか、嬉しそうに言う。
わたしは、その数字を聞いて、感心する。
けれど、自分では、何も数えていない。
数えるものが、見つからないのだ。
第三章 壁の中
その日の昼すぎ、わたしは、居間の壁を、剥がしていた。
土壁は、百年の埃を、含んでいる。
鍬のような道具で、慎重に、崩していく。
壁の中から、一本の、太い柱が、現れた。
柱は、壁に守られて、百年、闇の中で、じっとしていた。
触れた指の先に、ひんやりした木の、ざらつきが伝わった。
煤で、真っ黒になっていた。
わたしは、その柱を、手でなでた。
ざらざらしていた。
そのとき、気づいた。
柱と、横木の、継ぎ目が、見えた。
木を、組み合わせてある。
釘は、一本も使われていない。
継ぎ目は、髪の毛一本ほどの隙間もなく、ぴたりと合っていた。
わたしは、息を呑んだ。
百年前の大工の仕事が、そこにあった。
誰が組んだのかは、わからない。
けれど、その大工の手の動きが、柱を通して、わたしの指に、伝わってきた。
わたしは、動けなくなった。
吐く息だけが、冷たい土間に、白く、広がった。
声は、出なかった。
柱の前に立ったまま、長いこと、その継ぎ目に、触れていた。
どれくらい時間がたったのか、わからない。
田村が、遠くから、わたしを呼んだ。
はい、と答えた。
自分の声が、かすれていた。
第四章 孫の話
その日の夕方、家は、柱と土台だけになった。
西の空が、柿の色に、染まっていた。
どこかで、烏が、一声、鳴いた。
わたしは、残った柱の前で、道具を片づけていた。
塀の外から、真司くんが、入ってきた。
おじさん、と言った。
声が、少し、震えていた。
わたしは、振り向いた。
少年は、柱を見上げていた。
それから、わたしの顔を見て、言った。
昼間、おじさん、この柱をなでてたでしょう。
見てたのか、と聞いた。
見てた、と少年は言った。
ずっと、塀のすきまから。
わたしは、少し照れた。
ちょっと、見とれてたんだ、と言った。
少年は、首を振った。
見とれてたんじゃないよ、と言った。
笑ってたよ。
わたしは、驚いた。
おじさんは、柱をなでながら、笑って、泣いてた、と少年は言った。
すごく、嬉しそうだった。
わたし、おじいちゃんの家が壊されるのが、悲しかったんだ。
でも、おじさんを見て、思った。
この家は、ちゃんと、見つけてもらえたんだなって。
おじいちゃんの家を壊す人が、あんなふうに、柱を大事にしてくれる人で、よかった。
わたしは、何も言えなかった。
少年は、小さく、頭を下げた。
ありがとうございました、と言った。
第五章 声が出なかった理由
その夜、わたしは、宿のない町の、小さな駅のベンチに座って、電車を待っていた。
駅前の、自動販売機のあかりだけが、ぼんやり、ともっていた。
缶のお茶は、手のひらの中で、すぐに、ぬるくなった。
自分は、何も残らない仕事をしていると思ってきた。
壊すことしかできない人間だと。
でも、そうではなかった。
あの柱の前で、声が出なかったのは、悲しかったからでも、空しかったからでもなかった。
百年前の大工と、手が触れた。
そのことが、嬉しかった。
嬉しすぎて、声が出なかった。
壊す仕事は、壊す仕事ではなかった。
家の中に隠れていた、誰かの仕事を、見つけに行く仕事だった。
わたしは、それを、四十年の大工の、目と、手で、できる人間だった。
見つけた人間が、一人いる。
それだけで、百年前の仕事は、もう一度、息をした。
真司くんは、その息を、塀のすきまから、見ていた。
電車が、ホームに、入ってきた。
わたしは、立ち上がった。
ポケットの中に、あの継ぎ目の木くずが、一つだけ、入っていた。
エピローグ
一週間後、わたしは、更地になった土地を、もう一度、訪ねた。
草が、もう、土の上に、うっすら、伸びはじめていた。
家の形は、跡形もなかった。
土台だけが、残っていた。
隅に、あの柱が、一本、立てかけてあった。
会社には、無理を言って、その柱だけ、もらってきた。
施設にいるおばあさんのもとに、運ぶつもりだった。
わたしは、柱を、軽トラックの荷台に、紐で結んだ。
煤は、拭かなかった。
真司くんが、また、来ていた。
手に、雑巾を持っていた。
拭いてもいい、と聞いた。
わたしは、うなずいた。
少年は、柱に、そっと、雑巾を当てた。
煤の下から、薄い、飴色の木肌が、現れた。
継ぎ目が、朝の光に、きらりと光った。
わたしは、運転席に座った。
エンジンをかけた。
助手席に、真司くんが乗った。
柱を載せた軽トラックは、ゆっくり、町の道を走り出した。
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