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0_三杯のごはん

声も顔も変わらない自分を喜べない人間と思ってきた調査員に、宿のおかみが、あの日あんたは顔じゅうで笑っていたと差し出す。声が出なかったのは喜びが声より大きかったからだった。

0_三杯のごはん

朗読で聴く

第一章 十年目の尾根

山梨の山で、植物を調べている。

わたしは六十一になる。

県の自然保護の仕事をして、三十七年になる。

受け持ちは、標高二千四百メートルを超える、尾根のあたりだ。

夏のあいだ、週に三日は山に入る。

歩いて、しゃがんで、地面をのぞく。

それが、わたしの仕事の、ほとんどすべてだ。

派手な仕事ではない。

けれど、山の上の静けさが、わたしは、好きだった。

探しているものが、ひとつある。

小さな白い花だ。

背丈は、親指ほどしかない。

白い花びらが、五枚。

中心に、ごく小さな、金色の点が、ひとつ。

かつては、この山の岩場に、広く咲いていたという。

それが、四十年前から、ぱたりと見つからなくなった。

図鑑には、「この山では絶えたと思われる」と書かれている。

わたしは、十年前から、その花を探している。

誰に頼まれたわけでもない。

調査の合間に、少しずつ、岩の割れ目をのぞいて歩くだけだ。

七月の、はじめの朝だった。

梅雨の明けた空は、ひどく青かった。

山小屋を出て、尾根の北側の斜面へ向かった。

風が冷たくて、指先がかじかんだ。

吐く息が、白く、すぐに消えた。

遠くで、雷鳥が、一声、鳴いた。

岩がごろごろした斜面の、ずっと奥に、人の入らない割れ目がある。

そこだけ、まだのぞいたことがなかった。

わたしは、ザックを下ろして、四つんばいになった。

第二章 喜べない人

わたしは、昔から、感情が顔に出ない人間だ。

嬉しくても、悲しくても、あまり変わらない。

妻には、よく、あなたは何を考えているかわからない、と言われた。

娘が生まれたときも、わたしは、病室で、ただ立っていた。

看護師さんに、お父さん、抱いてあげてください、と言われて、やっと動いた。

そのとき、わたしは、確かに嬉しかった。

でも、それを顔や声で、表すことができなかった。

喜べない人間なのだと、思っていた。

喜ぶ力が、生まれつき、足りないのだと。

山の仕事には、向いていた。

山では、喜ぶことも、悲しむことも、あまりない。

ただ、歩いて、調べて、記録する。

その仕事が、わたしには、合っていた。

同じ職場に、若い職員がいる。

三十になったばかりの、高橋という青年だ。

明るくて、声が大きくて、仕事ができる。

標本を一つ採るたびに、やった、と声を上げる。

その声を聞くと、わたしは、少しだけ、うらやましくなる。

自分には、あんなふうに喜べる日が、来ない。

十年探している花が、もし見つかったとしても、きっと、わたしは、黙って立っているだけだろう。

そう思っていた。

第三章 数えるもの

高橋くんは、標本の数を数えている。

今年は何点採れたか、去年と比べてどうか、手帳に書いている。

わたしの手帳は、白い頁が多い。

歩いた日の、天気と、気温と、場所。

それだけが書いてある。

あるとき、高橋くんが、小屋の食堂で言った。

先生は、成果を数えないんですか。

数えるものが、ないんだよ、と答えた。

半分は本当だった。

高橋くんは、少し考えて、言った。

でも、先生が山に入る日数は、職員のなかで、いちばん多いですよ。

それが成果だと思います、と言った。

わたしは、笑ってごまかした。

同じ山を、同じ道具で歩いている二人が、別のものを数えていた。

高橋くんは、見つけたものを数え、わたしは、探した日を数えていた。

探した日は、数えても、評価にならない。

見つからなかった日は、ただ、見つからなかった日だ。

十年のあいだに、そういう日が、四百日以上、積もった。

それでも、山に入ることを、やめなかった。

なぜなのかは、自分でも、よくわからない。

第四章 あの朝の宿

その七月の朝、わたしは、斜面の割れ目の奥で、それを見つけた。

白い、小さな花だった。

一輪だけ、岩の影に、うずくまるように咲いていた。

背丈は、親指ほどだった。

花びらが、朝の光を受けて、かすかに透けていた。

わたしは、息を止めた。

声は、出なかった。

息を呑む音が、自分の耳に、聞こえただけだった。

どれくらい、そこにいたのか、わからない。

気づいたら、日が高くなっていた。

わたしは、写真を撮り、場所を記録した。

花には、触れなかった。

山を降りて、麓の宿へ戻った。

宿のおかみは、七十を過ぎた、小柄な人だ。

わたしが調査に来るたびに、世話になっている。

その晩、わたしは、いつものように、黙って夕飯を食べた。

ご飯を、三杯、おかわりした。

食後に、おかみが、お茶を持ってきた。

わたしの顔を、じっと見て、言った。

先生、今日、何かいいことがあったでしょう。

わたしは、どきりとした。

いえ、別に、と答えた。

おかみは、笑った。

うそをつきなさんな、と言った。

あんたが山から降りてきたとき、わたしは玄関で見てたんよ。

あんた、ずっと、笑ってたよ。

わたしは、聞き返した。

わたしが、ですか。

そう、とおかみは言った。

顔じゅうで、笑ってた。

ご飯を食べてるあいだも、ずっと。

三杯も食べて、しかも、そのあいだ、ずっと、口のはしが上がってた。

三十年、この宿に来てるけど、あんなに笑う先生を見たのは、初めてだった。

第五章 声より大きいもの

わたしは、その夜、部屋の窓辺に座って、長いこと、山の影を見ていた。

自分は、喜べない人間だと思ってきた。

感情を表せない、鈍い人間だと。

でも、そうではなかった。

声が出なかったのは、喜びがなかったからではなかった。

喜びが、声より大きかったからだった。

声に変える前に、体じゅうが、笑っていた。

自分には、見えなかっただけだ。

顔は、自分には見えない。

見ていたのは、おかみだった。

娘が生まれた日も、きっと、わたしは、あんなふうに、笑っていたのかもしれない。

誰かが、それを見ていてくれたのかもしれない。

わたしは、そう思って、少しだけ、胸のあたりが、熱くなった。

あの花は、見つけた人間の、いちばん奥の喜びを、静かに引き出す花だった。

窓の外で、山の稜線に、星が出ていた。

わたしは、手帳を開いた。

今日の頁に、場所と、天気と、気温を書いた。

それから、いつもは書かない一行を、足した。

嬉しかった、と。

エピローグ

翌朝、わたしは、もう一度、尾根へ向かった。

朝の光が、岩肌を、薄い金色に染めていた。

花は、そこに、いた。

昨日と同じ場所で、同じように、小さく咲いていた。

わたしは、岩の前に、しゃがんだ。

押し花にするために、紙を二枚、持ってきていた。

でも、花は、摘まなかった。

花の隣に、小さな紙を一枚、置いた。

その紙を、石で、押さえた。

それから、写真を撮らせてもらった。

山を降りる途中、わたしは、高橋くんに電話をした。

携帯の電波は、尾根のまんなかで、やっと、一本だけ立った。

見つけたよ、と言った。

電話の向こうで、高橋くんの大きな声が、山に響いた。

やったあ、先生。

わたしは、笑った。

声を出して、笑った。

自分の声が、尾根の風の中に、うまく、とけていった。

それは、四十年ぶりに、聞いた、自分の笑い声のような気がした。

ソウルミッション358

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