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9_紙の揺れ

水に入れる前の手の震えを父のような平らな紙が漉けない欠点と恥じてきた紙漉き職人に、書家が、紙の小さな揺れに墨が住むと差し出す。震えは水と時間への畏れだった。

9_紙の揺れ

朗読で聴く

第一章 三月の紙漉き

高知の山あいの谷で、和紙を漉いている。

わたしは四十四になる。

紙漉きの家に生まれて、二十六年、この作業場に立ってきた。

父は、五年前に亡くなった。

母は、紙の手伝いをしてくれていたが、今は、腰を悪くして、家の中にいる。

作業場には、大きな木の漉き舟がある。

水が張ってあって、白く濁っている。

水の中に、楮の繊維が、とけ込んでいる。

楮は、山で育てた木だ。

冬に刈って、蒸して、皮を剥ぎ、川にさらす。

白くなるまで、何日も、水にさらす。

手間のかかる仕事だが、手を抜けば、紙が、すぐに、分かる。

わたしは、簀桁という、木の枠を、両手に持つ。

簀桁は、竹の簾を張った、薄い枠だ。

それを、水の中に、そっと入れる。

すくい上げる。

揺らす。

水が流れて、繊維が、簾の上に、薄く積もる。

一枚の紙が、そこに、できあがる。

三月の朝、谷は、まだ冷たかった。

川の上に、薄い霧が、ゆっくり、流れていた。

梅の花が、一輪だけ、ほころんでいた。

水の温度は、手を入れると、骨まで、しみた。

指の先が、赤くなって、感覚が、遠のいていく。

それでも、わたしは、手を、水から、出さなかった。

わたしは、簀桁を、水の上に構えた。

指が、わずかに、震えていた。

その日は、特別な注文の紙を、漉く日だった。

第二章 揺れる手

簀桁を水に入れる前に、手が震えるのは、父が亡くなってからだ。

それまでは、なかった。

父の手は、一度も、揺れたことがなかった。

仕事の合間に、湯のみを持つ手まで、静かだった。

水の上で、簀桁は、いつも、水平に、止まっていた。

わたしの手は、違う。

水に入れる前に、指先が、細かく揺れる。

入れて、すくい上げる瞬間は、止まる。

でも、止まったはずの手が、わずかに、紙の上で、波を作る。

漉き上がった紙の表面に、ほんの小さな、うねりが、残ることがある。

父の紙は、鏡のように、平らだった。

わたしの紙には、揺れがある。

わたしは、それを、欠点だと思っていた。

売りものにならない、と思って、わたしは、自分の紙を、いつも、一段、安い値で出していた。

父の紙を、覚えているお客様には、申し訳ないと思っていた。

父の弟子は、わたしのほかに、いない。

だから、わたしが、この家の紙を、守らなければならない。

それなのに、手は、揺れる。

紙は、正直だと、父は言っていた。

手の揺れも、心の揺れも、全部、紙に出る。

わたしは、毎朝、水の前で、深く息を吐いた。

震えが、止まるまで。

第三章 特別な注文

その日の注文は、東京の書家からだった。

大きな書を書くための、一枚の紙。

縦一メートル半、横一メートルの、大判。

大判は、難しい。

簀桁も、大きく、重い。

両腕に、力がいる。

水の中の繊維が、均等に広がるように、手首を返す。

父なら、きっと、完璧に漉いた。

わたしは、母の部屋に、顔を出した。

炬燵に、足を入れた母が、小さく、背中を丸めていた。

お母さん、大判の注文が来ました、と言った。

母は、窓の外の、谷を見ていた。

谷の向こうの、杉の山が、靄に、霞んでいた。

やってごらん、と言った。

お父さんは、あなたの手を、ほめていたよ、と言った。

わたしは、聞こえなかったふりを、した。

聞こえていた。

胸の奥が、ぎゅっと、熱くなっただけだった。

作業場に戻って、水の前に立った。

大判の簀桁を、持ち上げた。

桟が、肩に、食いこんだ。

水の重さと、簀桁の重さが、腕に、のしかかった。

重かった。

手が、ひどく震えた。

水に入れた。

すくい上げた。

揺らした。

水が、流れていった。

簾の上に、薄い、白い層が、残った。

水が、簀の目から、さらさらと、落ちていった。

その音が、谷の静けさに、とけた。

わたしは、それを、板の上に、そっと、伏せた。

一枚、漉けた。

紙の端が、わずかに、うねっていた。

わたしは、それを、見て、胸が、沈んだ。

父なら、これを、反故にするだろう、と思った。

第四章 書家の話

一か月後、注文した書家が、谷まで、来た。

六十くらいの、小柄な女の人だった。

作業場の入口で、靴を脱いで、わたしに、頭を下げた。

漉いた紙の、お礼に来たのだと、言った。

わたしは、驚いた。

お代は、もう、いただいていますから、と言った。

書家は、首を振った。

お礼を、言いたかったんです。

鞄から、一枚の、大きな紙を、取り出した。

わたしが漉いた紙だった。

その上に、真っ黒な墨で、一文字が、書いてあった。

書家は、静かに、言った。

あの紙で、書きました。

一つだけ、お伝えしたいことがあります。

わたしは、紙の前に、立った。

紙の白さが、目に、しみた。

墨の黒さが、胸に、しみた。

墨の線が、紙の上を、走っていた。

太い線の中に、うねりが、見えた。

ところどころで、墨が、紙の揺れに、沿って、にじんでいた。

書家は、続けた。

これまで、何千枚の紙で、書いてきました。

平らな、完璧な紙もあります。

でも、あなたの紙は、違いました。

紙の小さな揺れに、墨が住むんです。

筆が、紙の中に、入っていくのが、わかるんです。

まるで、紙が、息をしているみたいに。

あの揺れは、あなたの手の、震えですよね。

わたしは、うなずいた。

書家は、微笑んだ。

その微笑みに、嘘が、ひとつも、なかった。

あの震えが、いちばん、好きです。

第五章 墨の住む紙

書家が帰ったあと、わたしは、作業場で、一人、立っていた。

漉き舟の水が、静かに、揺れていた。

水面に、窓の光が、細かく、砕けていた。

その光の揺れが、紙の揺れと、似ていた。

二十六年、わたしは、自分の手の震えを、恥じてきた。

父のような、平らな紙が、漉けない、欠点だと、思ってきた。

でも、そうではなかった。

それは弱さではなかった。

水と、繊維と、時間という、自分よりはるかに大きなものの前で、ちゃんと畏れている手だった。

その畏れが、紙に、揺れを残していた。

その揺れの中に、墨が、住んでいた。

父の紙は、父の紙だった。

わたしの紙は、わたしの紙だった。

恥じていたものが、あの書家にとって、いちばん、書きたくなる、紙だった。

わたしは、母の部屋へ行った。

お母さん、と言った。

母は、窓のほうを向いたまま、うん、と言った。

お父さんは、知っていたのよ、と言った。

あなたの紙の、その揺れのことを。

あなたが、いない日に、あなたの紙を、取り出して、見ていたの。

長いこと、手のひらで、なでていた。

エピローグ

翌朝、わたしは、水の前に立った。

水の面が、わたしの顔を、ゆらゆらと、映していた。

簀桁を、両手に、持った。

手は、震えていた。

わたしは、それを、隠さなかった。

水の上に、簀桁を、構えた。

息を吐いた。

震えたまま、水の中へ、そっと、入れた。

すくい上げた。

揺らした。

水が、流れた。

簾の上に、白い層が、残った。

わたしは、それを、板の上に、伏せた。

紙の端が、わずかに、うねっていた。

わたしは、その紙に、今までより、一段、高い値を、つけることにした。

谷の外で、三月の風が、ひとつ、桜のつぼみを、揺らした。

ソウルミッション358

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