7_稲刈りの前の田
稲を刈る前に田の前で動けなくなるのを情けないと隠してきた祖母に、孫が、命をもらう前の挨拶だと思って見てきたと差し出す。震えは命への畏れだった。

朗読で聴く
第一章 棚田の朝
島根の山の斜面で、米を作っている。
わたしは七十二になる。
棚田が、八枚ある。
一枚ごとが、小さい。
いちばん高い田は、畳十枚ほどの広さしかない。
山の水を、高い田んぼから、低い田んぼへ、順に流して、育てる。
水の音が、田んぼから田んぼへ、階段を降りるように、続く。
夜中に、水が止まっていないかを、見に行く。
月明かりの下の、棚田は、鏡を並べたように、光る。
夫は、十年前に亡くなった。
稲刈りの季節に、ぽっくりと、逝った。
最後の稲は、わたしが、一人で、刈った。
それからは、わたし一人で、田をやってきた。
息子は、松江の会社に勤めている。
九月の、中ごろの朝だった。
稲は、金色に垂れていた。
重い穂が、頭を下げている。
どの一本も、粒が、ぎっしり、詰まっている。
風が吹くと、波のように、さわさわと、揺れた。
今日は、稲刈りの初日だった。
孫の陽菜が、手伝いに来ていた。
都会の学校では、田んぼのことを、習わないという。
わたしの家に来ると、いつも、長靴を、はきたがった。
中学二年の十四歳で、夏休みの終わりの週末を、わたしの家で過ごしている。
わたしは、鎌を持って、いちばん高い田の、畦に立った。
鎌の刃は、朝の光を受けて、冷たく光った。
石で、刃をととのえた、鎌だった。
その場に立って、わたしは、動けなくなった。
第二章 田の前
稲を刈る前に、田の前で動けなくなるのは、五年前からだ。
鎌を握る。
田に入る。
その、手前の一歩が、出ない。
金色の稲を前にして、足が止まる。
手が、震える。
息が、浅くなる。
わたしは、それを、情けないと思っていた。
田の神様に、顔向けできない気がした。
七十年、米を作ってきた。
子どものころから、田に入っていた。
三つのころ、畦で、おむすびを、食べた記憶がある。
刈るのは、当たり前のことだ。
それなのに、体が、拒む。
鎌が、重い。
刃の先が、朝の光を、わたしの目に、跳ね返した。
眩しくて、わたしは、少し、目を細めた。
稲が、きれいすぎる。
春に、苗を植えた日のことを、思い出した。
泥の冷たさ。苗の細さ。
あの小さな緑が、これほどの金色に、なった。
一年かけて育てたものを、自分の手で、断ち切る。
その手前で、足が、固まる。
夫は、そんなことは、なかった。
鎌を持って、ざくざくと、刈っていった。
あの人の背中は、迷いがなかった。
わたしは、年をとって、弱くなったのだと思った。
夫がいたころは、夫の背中に、隠れていられたのかもしれない。
いなくなって、はじめて、わたしの足は、隠れ場所をなくした。
農家が、米を刈れないなど、恥ずかしいことだ。
誰にも、言わなかった。
毎年、畦の上で、深く息を吸うふりをして、足の震えがおさまるのを、待っていた。
息子は、見ていない。
夫も、気づかなかっただろう。
蝉の最後の声が、山に、こだましていた。
第三章 見られていた
その朝も、わたしは、畦の上に立っていた。
陽菜が、隣に来た。
背が、わたしと、同じくらいになっていた。
手に、軍手をはめて、鎌を持っている。
わたしは、何も言わなかった。
足の震えが、おさまるのを、待っていた。
一分、二分。
陽菜も、何も言わなかった。
蜻蛉が、稲の穂先に、とまった。
風が、止んだ。
田が、息を詰めたような、静けさだった。
隣で、黙って、稲を見ていた。
風が、稲を、さわさわと揺らした。
三分ほどたって、わたしは、ようやく、田に足を入れた。
最初の一株を、左手で、つかんだ。
鎌の刃を、根もとに当てて、引いた。
ざくり、と音がした。
切り口から、青い、草の匂いが、立った。
わたしは、その匂いを、胸いっぱいに、吸った。
稲が、手の中に、重く落ちた。
わたしは、その束を、そっと、畦に置いた。
陽菜は、わたしの後ろで、ずっと、見ていた。
昼まで、二人で、刈った。
背中に、日が、じりじりと、当たった。
陽菜の麦わら帽子の下から、汗が、ぽたぽたと、落ちた。
弁当を食べて、午後も、刈った。
陽菜は、ほとんど、しゃべらなかった。
夕方、最初の田を刈り終えて、二人で、縁側に座った。
夕日が、棚田の八枚を、順に、赤く染めていった。
麦茶を、飲んだ。
陽菜が、ぽつりと、言った。
おばあちゃん。
第四章 孫の話
陽菜は、麦茶の入ったコップを、両手で包んで、言った。
わたし、毎年、見てたんだよ。
わたしは、聞き返した。
何を、と言った。
陽菜は、前を向いたまま、答えた。
おばあちゃんが、田んぼの前で、黙って立つところ。
わたしは、息を止めた。
陽菜は、続けた。
小さいころから、毎年、稲刈りに来るたびに、おばあちゃんが、そうしてた。
わたし、最初は、どうして刈らないんだろうって、思ってた。
でも、あるとき、気づいたの。
おばあちゃん、田んぼに、お願いしてるんだって。
わたしは、驚いた。
陽菜は、続けた。
去年の秋、学校で、給食の時間に、先生が言ったの。
お米は、食べ物じゃなくて、命なんですよって。
みんな、ふうんって、顔してた。
でも、わたしだけ、分かった。
おばあちゃんの背中を、見てきたから。
おばあちゃんが、刈る前に、黙って立つのは、命をもらう前の、ご挨拶なんだって。
わたしは、そのとき、おばあちゃんの孫で良かったって、思った。
わたしは、コップを持ったまま、動けなかった。
麦茶の氷が、からん、と鳴った。
陽菜は、わたしを見て、笑った。
あのね。
わたし、この震え、好きだよ。
第五章 命をもらう前
その夜、わたしは、一人で、縁側に座っていた。
稲刈りの済んだ、最初の田が、月の光に、白く光っていた。
五年間、わたしは、田の前で動けなくなる自分を、恥じていた。
年をとって、弱くなった証拠だと、思っていた。
でも、そうではなかった。
それは弱さではなかった。
命という、自分よりはるかに大きなものを、いただく前に、ちゃんと畏れている体だった。
夫の迷いのない背中は、夫の流儀だった。
わたしの立ちすくむ背中は、わたしの流儀だった。
どちらも、田んぼへの礼だったのだ。
わたしの恥は、孫には、米が命であることを、教える、いちばん大きな授業だった。
誰にも、教えるつもりは、なかった。
それでも、孫は、見ていた。
夜風が、刈り株の田を、渡っていった。
遠くで、犬が、一声、吠えた。
山の端に、星が、数えきれないほど、出ていた。
エピローグ
次の日の朝、二枚目の田の前に、立った。
隣に、陽菜がいた。
鎌を持っていた。
金色の稲が、風に揺れた。
朝露が、穂先で、きらきらと、光った。
足が、止まった。
手が、震えた。
わたしは、それを、隠さなかった。
陽菜も、黙って、立っていた。
二人で、並んで、田に向かって、少しだけ、頭を下げた。
誰が教えたのでもなく、陽菜も、頭を下げた。
それから、わたしが、先に、田に足を入れた。
陽菜が、後ろから、続いた。
最初の一株を、二人で、同時に、刈った。
ざくり、ざくり、と、同じ音が、並んで、重なった。
稲の束が、二つ、同じ重さで、手の中に落ちた。
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