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6_息を止めて開ける

巣箱を開ける前に息を止める癖を蜂を怖がる未熟さと恥じてきた養蜂家に、弟子が、息を止めて開けるから蜂が荒れない、それは蜂への礼だと差し出す。息を止めるのは畏れだった。

6_息を止めて開ける

朗読で聴く

第一章 アカシアの季節

新潟の山すそで、蜂を飼っている。

わたしは四十八になる。

養蜂を始めて、二十二年になる。

六月は、アカシアの花が、満開の季節だ。

窓を開けると、甘い匂いが、部屋じゅうに、流れ込む。

山の斜面が、白い花で、雪のように染まる。

蜂たちは、朝から、花のあいだを飛びまわる。

羽音は、庭じゅうに、満ちている。

まるで、小さな、一つの、大きな生き物が、息をしているようだ。

巣箱は、木の箱だ。

かどが、手の脂で、つやつやしている。

杉の板でできていて、屋根のような蓋がついている。

庭に、五十ほどの巣箱が、並んでいる。

白いペンキは、もう、はげて、地の杉の色が、見えている。

どの箱にも、夫の字で、番号が書いてあった。

それぞれの箱に、数万匹の蜂が、住んでいる。

一匹の蜂が、一生に集める蜜は、小さじ一杯にも、満たない。

その一匙が、数万匹ぶん、集まって、一瓶になる。

瓶を持つたびに、わたしは、その重さを、思う。

わたしの仕事は、巣箱を開けて、蜜の入った巣枠を、引き出すことだ。

その朝、わたしは、一つ目の巣箱の前に、立った。

煙を、少し焚く。

蜂を、落ち着かせるためだ。

それから、蓋に、手をかける。

開ける前に、息を止める。

それが、わたしの癖だった。

隣に、弟子の健介が、立っていた。

二十五になる青年で、去年の春から、わたしのところで、働いている。

農家の三男で、都会の会社を辞めて、ここへ来た。

蜂のことは、何も、知らなかった。

わたしの手元を、じっと見ていた。

目が、澄んでいる人だった。

口数は少ないが、一度見たことは、忘れない。

第二章 止まる息

巣箱を開けるとき、わたしは、息を止める。

二十二年、変わらない。

最初は、刺されるのが、怖かったからだ。

息を止めて、ゆっくり、蓋を持ち上げる。

蜂の羽音が、箱の中から、わっと広がる。

そのとき、体が、固まる。

手が、震える。

わたしは、息を止めたまま、数秒、動かない。

それから、ゆっくり、息を吐く。

それが、恥ずかしかった。

養蜂家が、蜂を怖がっているなど、あってはならない。

夫は、生前、素手で、巣箱を開ける人だった。

刺されても、笑っていた。

蜂は、夫の腕に、とまって、まるで、飼い犬のようだった。

あの人の、大らかさが、うらやましかった。

わたしは、夫のようには、できなかった。

息を止め、肩をすくめ、固まる。

向いていないのだと、思っていた。

夫が亡くなって、七年になる。

心臓だった。朝、庭で、倒れた。

巣箱の前だった。蜂が、夫の周りを、静かに、飛んでいたという。

それからは、わたし一人で、蜂を飼ってきた。

息を止める癖は、直らないまま、ここまで来た。

春の分蜂の季節は、特に、緊張する。

女王蜂が、群れを連れて、巣を出る。

その羽音の渦のなかに、立ち会うのは、いつまでも、慣れない。

第三章 弟子の目

弟子の健介は、わたしの横で、よく、手を見ていた。

わたしが、巣箱を開ける前に息を止めるのを、見ていたのだと思う。

わたしは、それが、気になっていた。

未熟な、情けない師匠だと、思われているだろう。

その朝、わたしは、はじめて、弟子に言った。

わたしは、蜂が怖いんだよ。

健介は、驚いたように、わたしを見た。

わたしは、続けた。

二十二年やっても、怖い。

あなたは、まねしないほうがいい。

健介は、何か言いかけた。

わたしは、煙を、もう一度焚いた。

その日の仕事に、集中した。

巣枠を引く。蜜蓋を削る。蜜を搾る機械を回す。

午前中だけで、汗が、背中を、つたった。

それから、一週間ほど、健介は、何も言わなかった。

でも、わたしを見る目が、少し、変わった気がした。

どう変わったのかは、わからなかった。

六月の終わり、梅雨の晴れ間の朝だった。

健介が、わたしに言った。

先生。

一つ、見てもらいたいんです。

第四章 蜂の機嫌

健介は、庭の端の、別の巣箱の前に、わたしを連れていった。

そこは、健介が、自分で、世話をしている、三つの巣箱だった。

蓋を、開けてください、と健介は言った。

わたしが、ですか、と聞いた。

健介は、うなずいた。

わたしは、息を止めて、蓋に手をかけた。

ゆっくり、持ち上げた。

羽音が、箱から、広がった。

蜂が、静かに、巣枠の上を歩いていた。

荒れていなかった。

次に、健介が、同じ蓋を、開けた。

息を、止めずに、普通に、ひょいと開けた。

蜂が、いっせいに、飛び出した。

羽音が、高く、とがった。

数匹が、健介の腕に、とまった。

健介は、慌てて、蓋を閉めた。

わたしは、驚いて、見ていた。

健介は、苦笑いして、言った。

先生が開けるときだけ、蜂が、荒れないんです。

去年から、ずっと、見ていました。

先生が、息を止めて、そっと開けるとき、蜂は、静かなんです。

僕が開けると、怒る。

どうしてだろうって、ずっと、考えていました。

それで、気づきました。

先生の息を止めるのは、蜂への、礼なんだって。

ここに入ります、と言っているんだって。

夫さんが、素手で開けられたのは、夫さんの人柄ですけど、先生の息は、蜂の世界に、敬意を払っているんです。

だから、先生の蜂は、機嫌がいいんです。

わたしは、立ちつくしていた。

第五章 蜂への礼

その夜、わたしは、家の台所で、蜂蜜を、一さじ、舐めた。

アカシアの香りが、口の中に、広がった。

とろりと、舌に、残る甘さだった。

夫が、この蜜を、いちばん、好きだった。

二十二年のあいだ、わたしは、息を止める自分を、恥じていた。

蜂を怖がる、未熟な養蜂家だと、思っていた。

でも、そうではなかった。

それは弱さではなかった。

数万の命が暮らす小さな世界を、開けるという行いの前で、ちゃんと畏れている体だった。

その畏れが、蜂に、伝わっていた。

夫の素手は、夫の流儀だった。

わたしの息は、わたしの流儀だった。

どちらも、蜂への、礼だったのだ。

恥じていたものが、この庭の蜂たちを、静かにしていた。

わたしは、窓の外の、巣箱の列を、見た。

月の光が、杉の蓋を、やわらかく、照らしていた。

庭の向こうの、山が、黒く、静まっていた。

蜂たちは、箱の中で、眠っている。

数万の寝息が、闇の中に、かすかに、満ちているようだった。

エピローグ

次の朝、健介と、巣箱の前に立った。

煙を焚いて、蓋に手をかけた。

わたしは、いつものように、息を止めた。

隣で、健介も、息を止めた。

二人で、同時に、蓋を持ち上げた。

羽音が、箱の中から、広がった。

蜂は、静かに、巣枠の上を、歩いていた。

わたしの肩が、少し、すくんだ。

隠さなかった。

数秒して、わたしは、そっと息を吐いた。

健介も、同じ瞬間に、息を吐いた。

朝の庭に、二人分の息が、小さく、重なった。

顔を見合わせて、少し、笑った。

わたしは、巣枠を、一枚、引き出した。

ずしりと、重かった。

この重さが、わたしの二十二年だと、思った。

金色の蜜が、朝の光を受けて、重く光っていた。

健介が、それを、両手で、受け取った。

手が、かすかに、震えていた。

ソウルミッション358

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