5_海に手を合わせる
海の前で動けなくなるのを年老いた体の恥と思っていた海女に、若い海女が、あなたが手を合わせるのを待ってみんな入ると差し出す。震えは海への畏れで、浜の合図だった。

朗読で聴く
第一章 七月の浜
三重の海辺の村で、海女をしている。
わたしは六十七になる。
十八のときに潜りはじめて、四十九年になる。
母も、祖母も、海女だった。
わたしの代で、この浜の海女は、もう、十数人しか、いない。
海女は、素潜りで、アワビやサザエを獲る。
水中眼鏡と、鉄の道具と、腰の重りだけ。
酸素の管は、ない。
息を一つ吸って、二十メートル近く、潜ることもある。
海の底は、青く、暗い。
光が、上から、ゆらゆらと、降りてくる。
耳の奥が、きいんと、鳴る。
そこでは、地上の音が、ひとつも、聞こえない。
岩の陰に、貝が、張りついている。
わたしは、鉄の道具で、その貝を、はがす。
浮かんで、息を吐く。
高く、鋭い、口笛のような息の音が、海に響く。
それが、海女の息の音だ。
磯笛、と呼ぶ。
海から上がったときの、命の音だと、祖母は言っていた。
七月の朝、村の浜には、十人ほどの海女が、集まっていた。
年も、顔も、まちまちの女たちが、笑いながら、準備をしていた。
白い磯着と、白い頭巾。
冷えた朝でも、潜るときは、薄い木綿だけだ。
体を守るのは、海への信頼だけだと、母は言った。
木の磯桶を、波に浮かべて、準備をしていた。
磯桶の中には、獲った貝を入れる網と、浮きがある。
わたしの桶は、四十年使っている。
にぎりが、手の形に、すり減っている。
祖母が使い、母が使い、わたしが使っている。
三代の手の形が、にぎりに、残っている。
わたしは、桶を浜に置いた。
海を見て、動けなくなった。
足が、砂の上で、固まった。
第二章 入る前のわたし
潜る前に、海の前で、動けなくなるのは、五年前からだ。
最初は、一、二分だった。
今は、五分近く、立ちつくす。
海を見て、足が、動かなくなる。
手が、震える。
息が、浅くなる。
体が、海に入ることを、拒んでいる。
若いころは、そんなことは、なかった。
飛び込むように、入っていった。
年をとって、体が、怖がるようになったのだと思った。
海が怖いなど、海女として、恥ずかしい。
仲間たちは、わたしを、先に行かせてくれる。
もう、行きますよ、と言うこともある。
わたしは、動けなかった。
足の震えが、おさまるまで、待った。
砂は、朝日で、あたたまりかけていた。
足の裏から、ひんやりした潮の湿り気が、這い上がってきた。
待っているあいだ、仲間たちが、浜の端で、わたしを見ていた。
その視線が、背中に刺さった。
年をとって、役に立たなくなったと、思われているのだろう。
そう思って、わたしは、桶のにぎりを、強く握った。
第三章 辞めようとした朝
その夏、わたしは、海女をやめようと思っていた。
体がもたない。
足が、動かない。
仲間に、迷惑をかけている。
七月の、終わりの日に、そう決めて、浜に立った。
最後の潜りにしようと思った。
海は、静かだった。
波の音が、遠くで、ゆっくり、繰り返していた。
カモメが、一羽、低く、飛んでいった。
朝日が、水平線から、まっすぐに伸びていた。
わたしは、いつものように、動けなくなった。
足が、砂にはりついた。
わたしは、桶を置いて、海に向かって、手を合わせた。
ほとんど、無意識だった。
それが、いつのまにか、習慣になっていた。
海に、お願いします、と言うように、頭を下げる。
手のひらを、胸の前で、合わせる。
指先が、冷えて、白くなっている。
それでも、合わせた手は、離さなかった。
その手が、震えている。
合わせた手のひらの間に、朝の潮風が、入ってきた。
合わせた手のまま、わたしは、じっと立っていた。
やがて、息が、深く落ちた。
足が、動いた。
わたしは、桶を押して、波の中へ、入っていった。
水が、足首から、膝へ、胸へと、体を包んだ。
冷たさに、肌が、きゅっと、縮んだ。
背中で、誰かが、動く気配がした。
第四章 若い海女の話
その日の潜りのあと、浜で、若い海女に呼び止められた。
二十七になる、美咲という子だった。
三年前に、東京から来て、海女になった。
最初の日、海の前で、泣いたのを、覚えている。
今は、わたしと並んで、潜る。
わたしの隣で、潜っている。
美咲は、桶を砂に置いて、しゃがんで、言った。
おばあちゃん、あのね。
わたしは、おばあちゃんではない、と言った。
美咲は笑った。
でも、聞いてください。
わたしは、うなずいた。
美咲は、真剣な顔で、言った。
声が、少し、うわずっていた。
わたし、いつも、おばあちゃんが海に手を合わせるのを、待っているんです。
わたしは、意味が、わからなかった。
美咲は、続けた。
浜のみんなが、そうなんです。
おばあちゃんが、海に手を合わせて、足を動かして、波に入るまで。
それまで、誰も、入らないんです。
わたしは、驚いた。
美咲は、続けた。
わたし、最初の年に、聞きました。
先輩たちに。
なんで、みんな、おばあちゃんを、待つんですかって。
そしたら、言われました。
あの人が手を合わせるのを見ると、今日の海が、ちゃんと、入っていい海だって、分かるからって。
あの震える手が、合図なんだって。
あの手を見ると、わたしたちも、海を、思い出すんだって。
美咲は、わたしの手を、見ながら、言った。
わたし、そのとき、初めて、海が、怖くなくなりました。
怖くていいんだって、分かったから。
第五章 海の合図
その夜、わたしは、家の縁側で、海の音を聞いていた。
夕飯の、あとかたづけを、すませて、座った。
湯上がりの肌に、夜風が、心地よかった。
四十九年のあいだ、わたしは、海の前で動けなくなる自分を、恥じていた。
年をとって、体が怖がっているのだと、思っていた。
でも、そうではなかった。
それは弱さではなかった。
海という、自分よりはるかに大きなものの前で、ちゃんと畏れている体だった。
その畏れを、仲間たちは、待っていた。
震える手が、今日の海が、入っていい海かどうかを、教えていた。
わたしの欠点だと思っていたものが、この浜の、いちばんの合図だった。
もし、わたしが、ためらいなく飛び込んでいたら、若い海女たちは、海を、ただの水だと思ったかもしれない。
わたしは、ためらうことで、海を、海のままにしていたのだ。
縁側の向こうで、波が、砂を洗っていた。
四十年使った桶が、夜の中で、白く光っていた。
桶の中に、潮が、少し、残っていた。
エピローグ
次の朝、浜に立った。
磯桶を、砂に置いた。
朝の砂は、まだ、冷たかった。
海を見た。
足が、固まった。
手が、震えた。
わたしは、それを、隠さなかった。
浜の端で、仲間たちが、待っていた。
美咲も、桶を抱えて、立っていた。
誰も、急かさなかった。
浜に、波の音だけが、あった。
その沈黙を、わたしは、ありがたいと思った。
わたしは、胸の前で、手を合わせた。
長く、頭を下げた。
震える手のまま、息を、深く落とした。
足が動いた。
一歩、二歩、波の中へ、入った。
振り返らずに、潜った。
水の中から、浜のほうを見上げると、白い磯着の影が、一つずつ、波に入ってくるのが見えた。
あなたの魂のテーマに気づく場所