3_銀のトレー
手術の前に指が震えるのを向いていない証拠と隠してきた看護師に、新人が、その震えを見て命だと分かり辞めずに済んだと差し出す。震えは命への畏れだった。

朗読で聴く
第一章 手術室の朝
岡山の総合病院の、手術室で働いている。
わたしは三十九になる。
器械出しの看護師になって、十四年がたった。
器械出しというのは、執刀医の隣に立って、メスや鉗子を、手渡す仕事だ。
銀色のトレーに、器具が並んでいる。
大小のメス。のこぎりのような骨ノミ。曲がった鉗子。糸のついた針。
それを、医師の求めに応じて、無言で、手のひらに置く。
声は、ほとんど出さない。
必要な言葉は、短い。
メス。鉗子。ガーゼ。糸。
それだけで、手術が、進んでいく。
目と、手と、タイミングだけだ。
二月の朝、手術室は、冷たい水の匂いがした。
その日は、大きな手術だった。
六十代の男性の、心臓の手術。
五時間かかる予定だった。
新人の看護師が、一人、見学に入った。
胸の前で、手を組んで、緊張しているのが、分かった。
わたしは、その肩を、軽く叩いた。
大丈夫、見ているだけでいい、と言った。
二十三になる、山田さんという若い人だった。
入職して、半年だと言った。
わたしは、トレーの前に立って、器具の数を確かめた。
一本ずつ、指で触れて、声に出さずに、数えた。
手術のあとで、一本でも足りなければ、体の中を、探すことになる。
だから、数えるのは、いのちを数えることと、同じだった。
銀のふちに、天井の手術灯が、白く映っていた。
その光の中で、わたしの指が、わずかに震えていた。
第二章 震える指
手術の前に、指が震えるようになったのは、三年前からだ。
最初の一本のメスを、手に取る瞬間に、指先が揺れる。
器具を渡す瞬間には、止まる。
止まるのは、いつも、手術が始まってからだった。
始まる前の、数秒だけ。
わたしは、それを、誰にも見られないように、隠していた。
手を、白衣の袖の中に入れて、組んでいた。
指を、ゆっくり、握って、開いた。
器械出しは、手が止まって、動かないことが、美徳とされる。
精密に、確実に、無駄なく。
一つでも、渡し間違えれば、患者の命に、関わる。
十四年やって、まだ、手が震える。
向いていないのだと、思っていた。
同期は、みんな、辞めるか、管理職になっていた。
一人は、地方の病院で、看護部長になった。
もう一人は、結婚して、辞めた。
年賀状だけが、毎年、届く。
最前線に立ち続けているのは、わたし一人だった。
それは、勲章ではなかった。
ただ、辞められずにいるだけだった。
震える手で、命の近くに立っている。
その事実が、怖かった。
誰にも、話したことがない。
第三章 見学
手術が、始まった。
外科医が、執刀の合図をした。
メスを。
わたしは、トレーから、メスを取って、医師の手のひらに置いた。
その瞬間、指が、また、震えた。
ほんの一瞬だった。
医師は、気づかなかったと思う。
メスが、皮膚に入った。
赤い色が、静かに、広がった。
わたしは、目をそらさなかった。
器具の音だけが、冷たい部屋に、規則正しく響いた。
わたしは、器具の順番を、頭の中で、数えた。
次は、鉗子。次は、ガーゼ。
山田さんが、わたしのすぐ後ろに、立っていた。
背の低い人だった。
つま先で、背伸びをして、トレーの上を、覗いていた。
わたしの手元を、じっと見ていた。
見られていることが、わたしの背中を、固くした。
五時間、無言で、手を動かした。
手術灯の光は、強く、あたたかく、首のうしろを焼いた。
背中に、汗が、一筋、流れた。
手術着の下が、じっとり、湿っていた。
途中で、一度も、間違えなかった。
それが、わたしの誇りでもあった。
手術が終わって、患者が、集中治療室へ運ばれていった。
器具を片づけ、トレーを洗って、手袋を外した。
トレーの銀の面に、疲れた自分の顔が、ぼんやり映った。
わたしは、それを、見ないように、布で拭いた。
わたしの手は、わずかに赤かった。
洗面所で、水を流しながら、わたしは、自分の指を見た。
指の関節が、赤くなっていた。
あの震えは、どこへ行ったのだろう、と思った。
さっきまで、あれほど、震えていたのに。
今は、止まっている。
山田さんが、洗面所の入口に、立っていた。
第四章 新人の話
先輩。
わたしは、水を止めた。
山田さんは、目を赤くしていた。
マスクを外した頬に、涙の跡が、残っていた。
見学、ありがとうございました、と言った。
どうだった、と聞いた。
山田さんは、少し黙ってから、言った。
わたし、入職して半年で、辞めようと思っていたんです。
わたしは、驚いた。
山田さんは、続けた。
手術室が、怖くて。
毎日、手が震えて。
他の先輩たちは、みんな、堂々としていて。
わたしだけ、向いてないんだと思っていました。
わたしは、何も言えなかった。
山田さんは、涙をこぼして、笑った。
でも、今日、先輩が、メスを渡す前に、手が震えているのを、見ました。
ほんの、一瞬でした。
でも、見えたんです。
それで、思ったんです。
あ、この人も、怖いんだ。
それでも、手を出してる。
十四年も。
これは、命なんだって。
震えるのは、当たり前のことなんだって。
わたしは、その震えを見て、辞めずに済みました。
わたしは、水道の蛇口を、強く握った。
何も言えなかった。
山田さんは、小さく頭を下げて、出ていった。
第五章 命の前で
その夜、わたしは、家に帰って、自分の手を、長いこと見ていた。
三年間、この震えを、隠してきた。
向いていない証拠だと、思ってきた。
でも、そうではなかった。
それは弱さではなかった。
命という、自分よりはるかに大きなものの近くに立つ人間が、ちゃんと震えているということだった。
震えない手で、命を渡す人間のほうが、危うい。
迷いのない手は、美しい。
でも、迷いのない手には、命の重さが、映らないことがある。
わたしの手は、この仕事が何であるかを、正しく知っていたのだ。
それを、わたしだけが、知らなかった。
震えは、恥ではなかった。
若い人の目には、辞めずにいるための、小さな灯だった。
わたしは、その手を、握って、開いた。
もう、隠さなくていいと思った。
窓の外で、岡山の冬の風が、鳴っていた。
その風は、遠い瀬戸内の、海の匂いがした。
わたしは、明日の手術の、予定表を、頭の中で、もう一度、なぞった。
エピローグ
翌週の手術の朝、わたしは、トレーの前に立った。
手術灯が、銀のふちを白く光らせていた。
山田さんが、隣に立っていた。
今日は、見学ではなく、介助だ。
わたしは、袖の中に、手を入れなかった。
両手を、トレーのふちに置いた。
指が、小さく、震えていた。
山田さんが、横目で、見ていた。
何も言わなかった。
わたしも、何も言わなかった。
外科医が、入ってきた。
手洗いの水の音が、廊下から、聞こえていた。
メスを、と言った。
わたしは、メスを取った。
指は、震えたまま、医師の手のひらに、そっと、置いた。
隣で、山田さんが、小さく息を吸う音がした。
手術室の空気が、ほんの少し、あたたかくなった気がした。
わたしの震えを見て、自分の手を、一度だけ、握りしめたのを、見た。
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