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2_屋根の上の足

登る前の膝の震えを老いの証と隠してきた茅葺き職人に、家主の老婆が、この屋根は震えながら登る人に直されてきたと差し出す。震えは二百年の屋根への畏れだった。

2_屋根の上の足

朗読で聴く

第一章 二百年の屋根

岐阜の山あいで、茅葺きの屋根を直している。

わたしは七十になる。

十六のときに親方に弟子入りして、五十四年、屋根に登ってきた。

茅葺きの屋根は、二十年から三十年で、葺き替える。

古いかやを剥いで、新しいかやを、一束ずつ、重ねていく。

束ねたかやは、重い。

一束で、両腕に、ずしりと来る。

八月の末、わたしは、麓の古い農家の屋根の仕事に入った。

家主は、八十二になる、小柄なおばあさんだった。

ミツという名前で、一人で暮らしている。

夫を亡くして、十五年になるという。

庭に、小さな畑があって、ナスとキュウリが、実っていた。

屋根は、二百年前のものだと言った。

棟の高さは、地面から八メートルある。

傾きは、急だ。

足の下で、かやは、ざらりと、鳴る。

古いかやは、ところどころ、苔むして、緑に染まっている。

雨が降れば、その苔が、滑る。

この仕事で、足を滑らせた職人の話は、いくつも聞いてきた。

足がかりの、木の梯子を、軒に掛けた。

わたしは、梯子の下から、屋根を見上げた。

暑い日だった。

蝉が、鳴いていた。

わたしの膝が、梯子の前で、わずかに震えた。

第二章 震える膝

五年前から、屋根に登る前に、膝が震えるようになった。

はじめは、年のせいだと思った。

体の力が、落ちたのだと。

でも、梯子を上がってしまえば、仕事はできた。

かやを差す手は、確かだった。

それなのに、登る直前の、あの数秒だけ、膝が言うことをきかない。

わたしは、それを、恥じていた。

屋根職人が、屋根を怖がるなど、あってはならない。

親方は、八十まで屋根に上がった人だった。

最期は、屋根の上ではなく、布団の中だった。

わたしが、五十を過ぎたころのことだ。

梯子の前で、ためらうところを、見たことがない。

わたしの弟子は、二人いる。

一人は、三十四。もう一人は、三十一。

どちらも、筋がいい。

どちらも三十代で、梯子を軽々と駆け上がる。

その背中を見ていると、わたしは、自分が衰えたと思う。

若い者の背は、屋根の傾きに、まっすぐ、立つ。

わたしの背は、少し、曲がっている。

若い者に、悟られたくない。

梯子の前では、いつも、道具の点検をするふりをした。

しゃがんで、縄をほどいて、結び直す。

そのあいだに、膝の震えが、おさまるのを待った。

誰にも気づかれていないと、思っていた。

第三章 屋根を降りる日

その夏、わたしは、決めかけていた。

この屋根を最後に、現場から身を引こうと。

弟子の一人に、棟梁を任せて、自分は、下から見ているだけにしようと。

屋根の上で、足を滑らせたら、取り返しがつかない。

命綱は、つけている。

それでも、茅葺きの屋根は、不意に、足もとを裏切る。

震える膝で、八メートルの屋根に立つことは、もう、無謀なのかもしれない。

二人の弟子は、まだ、わたしの手の内を、全部は、知らない。

教えられないまま、身を引くのも、心残りだった。

梯子を上がる前、わたしは、また、しゃがんで縄を結び直していた。

古い縄は、固い。

縄は、親方から、譲り受けたものだ。

よく見ると、結び目の癖が、親方の結び方と、同じだった。

指が、思うように動かない。

家主のミツさんが、縁側から、出てきた。

わたしの隣に、小さな椅子を持ってきて、腰を下ろした。

麦茶を一杯、わたしに、差し出した。

わたしは、頭を下げた。

ミツさんは、屋根を見上げたまま、言った。

この家は、わたしが嫁に来る前から、この屋根でな。

わたしは、うなずいた。

ミツさんは、続けた。

あんた、登る前に、いつも、座るなあ。

わたしは、どきりとした。

見られていたのか、と思った。

ミツさんは、湯のみを持ったまま、言った。

わたしの舅が、教えてくれたんや。

この屋根を葺いてきた人たちは、みんな、登る前に、震えたって。

第四章 ミツさんの話

ミツさんは、小さな声で、話してくれた。

遠くの山で、ヒグラシが、鳴きはじめていた。

わたしが嫁に来たのは、昭和の終わりごろでな。

そのとき、屋根の葺き替えをしてくれたんが、あんたの親方や。

わたしは、驚いた。

先代の親方のことを、この人は、知っていたのか。

ミツさんは、続けた。

あの親方も、登る前に、足が震える人でな。

梯子の下で、ずっと、手を合わせとったわ。

わたしは、息を止めた。

そんなところを、一度も、見たことがなかった。

ミツさんは、笑った。

あんたら若い者の前では、見せんかったんやろ。

でもな。

震える人が直した屋根は、百年、もつんや。

震えんと登る人の屋根は、十年で、雨が漏る。

うちの舅が、そう言っとった。

茅葺きは、屋根に登ったとき、足の裏で、屋根の声を聞く仕事やって。

震える人は、聞こえる人やって。

わたしは、梯子の前で、立ちつくしていた。

五十四年のあいだ、わたしは、そんなことを、誰からも、教えてもらわなかった。

ミツさんは、湯のみを、わたしの手に、持たせてくれた。

湯のみは、薄くて、ひんやり、冷たかった。

その冷たさが、手の震えを、少しだけ、静めた。

わたしは、麦茶を、一口、飲んだ。

冷たくて、うまかった。

第五章 屋根の声

わたしは、梯子に足をかけた。

ぎし、と木が鳴った。

古い梯子の、段の感触が、足の裏に、ひとつずつ、伝わった。

膝が、震えた。

隠さなかった。

一段ずつ、上がった。

屋根の上に立つと、風が、かやの匂いを運んできた。

麓の村が、緑の中に、ぽつぽつと、屋根を並べていた。

どの屋根も、誰かの手で、葺かれたものだ。

わたしは、その屋根の数を、数えようとして、やめた。

わたしは、膝をついて、手のひらを、古いかやの上に置いた。

二百年ぶんの、あたたかさがあった。

わたしは、この震えを、長いあいだ、恥じてきた。

年をとった証拠だと、思ってきた。

でも、そうではなかった。

それは弱さではなかった。

自分より、はるかに古い屋根の上に立つ人間が、ちゃんと震えているということだった。

足の裏が、屋根の声を、聞いていた。

先代の親方も、梯子の下で、手を合わせていた。

わたしは、その背中を、継いでいたのだ。

下から、弟子が、わたしを見上げていた。

わたしは、手を上げた。

新しいかやの束を、上げてくれと、合図した。

エピローグ

屋根の葺き替えは、九月の半ばに、終わった。

棟の上に、新しいかやの屋根が、金色に光っていた。

古い屋根の、くすんだ色は、もうどこにもなかった。

二百年の隣に、新しい二十年が、始まった。

ミツさんが、庭に立って、見上げていた。

杖を持って、背中を丸めて、長いこと、動かなかった。

小さな手を合わせて、屋根に向かって、頭を下げていた。

わたしは、梯子を降りた。

最後の一段で、立ち止まった。

膝が、また、少し、震えた。

弟子が、そばに来た。

先生、と言った。

わたしは、梯子の下に、しゃがんだ。

縄を、ゆっくり、結び直した。

弟子も、隣に、しゃがんだ。

何も言わずに、わたしの手を、見ていた。

それから、自分の縄を、ほどいて、同じように、結び直した。

わたしは、その手が、少しだけ、震えているのを、見た。

梯子の上に、夏の終わりの空が、高かった。

ソウルミッション358

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