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1_雷の夜のパパ

雷が怖いのは観測員失格だと隠してきた父に、娘の絵日記が、窓の前で黙るパパは神様に会っているみたいだった、と差し出す。怖れは空への畏れだった。

1_雷の夜のパパ

朗読で聴く

第一章 山の測候所

北海道の山の上の、小さな測候所で働いている。

わたしは四十四になる。

観測員になって、十九年がたった。

測候所は、標高千二百メートルの尾根にある。

白い、平らな屋根の建物と、屋根の上の風速計と、庭の白い百葉箱。

それが、わたしの職場の全部だ。

他に、人は、いない。

夏は、霧と、鳥の声だけが、話し相手だった。

毎日、決まった時刻に、百葉箱の扉を開ける。

中の温度計を読んで、湿度を読んで、記録をつける。

三時間ごとに、それを繰り返す。

雨の日も、雪の日も、吹雪の日も。

数字は、嘘をつかない。

山の上では、数字だけが、天気の言葉だ。

気温。風向き。気圧。雲の量。

それらを、決まった記号で、帳面に書きつける。

十九年、一日も、休まずに、続けてきた。

わたしは、その仕事が好きだった。

妻は、四年前に亡くなった。

病気が分かってから、一年足らずだった。

最期の夜、妻は、窓の外を見て、雲がきれいね、と言った。

わたしは、気圧を、答えてしまった。

そういう人間なのだと、そのとき、自分で思った。

八歳になる娘は、麓の町の学校に、通っている。

平日は、母方の祖母の家に預けて、週末だけ、山の官舎に連れてくる。

十月の、はじめの週末だった。

娘は、官舎の机で、ノートを広げていた。

学校の宿題だと言っていた。

わたしは、空を見ていた。

西の山の向こうに、黒い雲が、重なり合っていた。

第二章 怖がる観測員

観測員は、怖がってはいけない。

わたしは、そう思ってきた。

雷が鳴っても、風が唸っても、冷静に、数字を読む。

吹雪の夜に、屋根の風速計が、凍りついたこともある。

わたしは、命綱をつけて、氷を割りに出た。

あのときも、膝は、震えていた。

それが、この仕事の誇りだと。

でも、わたしは、雷が怖い。

十九年たっても、慣れない。

遠くで、最初の光が走る。

しばらくして、低い音が、地面の下から響いてくる。

その音を聞くと、背中の皮が、ぞわりと縮む。

足が、動かなくなる。

窓の前で、立ちすくんでしまう。

先輩の観測員は、笑っていた。

雷が怖くて、山に勤まるか、と。

先輩は、雷の最中でも、鼻歌まじりで、百葉箱へ出ていった。

その背中は、広くて、迷いが、なかった。

わたしは、その背中を見るたびに、自分は向いていないのだと思った。

十九年、続けてきた。

それでも、怖いものは、怖い。

誰にも言えなかった。

娘にも、言えなかった。

八歳の娘は、父を、強い人だと、信じている。

その信頼を、壊したくなかった。

父親は、強くなければならない。

そう思って、雷の夜は、娘の前で、何ごともない顔をしていた。

第三章 窓の前

その夜、雷が来た。

夕方から、空は暗く、風が冷たかった。

娘は、官舎の台所で、夕飯を食べていた。

カレーの匂いが、狭い官舎に、広がっていた。

窓の外の空だけが、別の色だった。

わたしは、窓の前に立っていた。

尾根の向こうで、光が走った。

白い、太い、割れるような光だった。

数えた。

一、二、三、四、五。

低い音が、床を這って、届いた。

わたしの膝が、震えた。

足を踏みしめて、立った。

窓ガラスが、細かく鳴った。

山の風が、ひゅうひゅうと、笛のように鳴った。

百葉箱の白い扉が、闇の中で、ぼんやり、浮かんでいた。

娘が、台所から、わたしを見ていたと思う。

わたしは、振り向かなかった。

振り向いたら、顔を見られる。

怖がっている顔を、見られる。

わたしは、窓の外を見たまま、言った。

大丈夫だ。ここは、安全だから。

娘は、何も答えなかった。

それから、また、光った。

わたしは、数字を読んだ。

読みながら、手が震えた。

その夜は、記録の字が、乱れた。

第四章 娘のノート

翌朝、雷は、去っていた。

雲の切れ間から、朝の光が、尾根を、金色に染めていた。

小鳥の声が、どこからか、聞こえた。

空は、洗ったように、青かった。

官舎の机の上に、娘のノートが、開いたままになっていた。

見るつもりは、なかった。

でも、ページの端に、わたしの名前が、見えた。

絵日記だった。

上のほうに、窓の絵が描いてあった。

窓の前に、背の高い、黒い人が立っている。

その上に、青い線で、雷が描いてあった。

絵の下に、鉛筆の字で、書いてあった。

十月七日。かみなりの夜。

パパは、まどの前で、だまっていた。

パパの背中は、ふるえていた。

わたしは、ちょっと、こわかった。

でも、パパが、まどの前に立っていると、かみなりが、ちゃんと、聞こえてる気がした。

パパは、かみさまに、会っているみたいだった。

パパの背中は、かっこよかった。

わたしは、ノートを持ったまま、立ちつくした。

紙の上の黒い人は、確かに、わたしだった。

背が高く、肩を張って、窓の前に立っている。

震えている、と娘は書いた。

それでも、かっこよかった、と書いた。

台所から、娘が、入ってきた。

わたしの手の中のノートを見て、ちょっとだけ、顔を赤くした。

見たの、と言った。

うん、と答えた。

娘は、少し考えて、言った。

パパ、こわかったの。

わたしは、膝をついた。

娘の目の高さに、顔を下げた。

こわかった、と言った。

娘は、うなずいて、言った。

わたしも。でも、いっしょだと、へいき。

第五章 神様に会う背中

その日の午後、わたしは、一人で、百葉箱の前に立った。

白い扉を開けた。

中の温度計を、いつものように、読んだ。

数字を、帳面に、書きつけた。

字は、少しも、乱れていなかった。

温度計の水銀が、きのうの雷の夜より、少しだけ、冷えていた。

わたしは、この仕事の十九年、怖がる自分を、恥じてきた。

観測員の失格だと思ってきた。

でも、そうではなかった。

それは弱さではなかった。

空という、自分よりはるかに大きなものの前に、ちゃんと立っているということだった。

膝が震えたのは、わたしの体が、その大きさを、正しく感じていたからだ。

怖がっていたのではなく、畏れていた。

先輩の鼻歌は、先輩のやり方だった。

わたしには、わたしのやり方がある。

窓の前で黙る背中は、娘の目には、神様に会っているように見えた。

わたしは、扉を閉めた。

白い百葉箱が、朝の光を、まぶしく返していた。

エピローグ

次の週末にも、娘は、山に来た。

夕方、遠くの空に、雲が積み上がった。

わたしは、窓の前に立った。

台所から、娘が来て、わたしの隣に並んだ。

背が、わたしの腰までもない。

小さな頭が、わたしの手の下に、すっぽり、収まった。

遠くで、光が走った。

娘が、わたしの手を、握った。

わたしは、数を数えた。

雷の数え方は、父に教わったのだと、ふと思った。

光ってから、音が来るまでの秒数に、三百四十を掛ける。

それが、雷までの、距離になる。

一、二、三。

低い音が、ガラスを、細かく鳴らした。

わたしの手は、震えていた。

隠さなかった。

娘の小さな手が、その震えを、そっと包んでいた。

わたしは、窓の外を見たまま、言った。

こわいな。

娘は、うなずいた。

うん、と言った。

それから、二人で、雷が過ぎるまで、黙って、窓の前に立っていた。

ソウルミッション358

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