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0_最初のひと打ち

衰えの証と恥じていた最初の一打の震えを、若い僧が、麓の人はその揺れを聞きに来ると差し出す。震えは四百年の鐘の前の畏れだった。

0_最初のひと打ち

朗読で聴く

第一章 大みそかの支度

福島の山の寺で、鐘をついている。

わたしは六十一になる。

寺の鐘つき守になって、二十九年がたった。

鐘つき堂は、石段を百段ほど上がった、山門の脇にある。

鐘は四百年前のものだと聞いた。

山の寺には、鐘のほかにも、古いものがたくさんある。

本堂の柱は、手の脂で、黒く光っている。

わたしは、その一つひとつを、毎日、雑巾でふく。

二十九年、同じ柱に、同じ手で、触れてきた。

緑色に古びて、ところどころ、黒ずんでいる。

撞木は、一本の太い丸太だ。

二本の綱で、鐘の横に吊ってある。

綱は、麻でできている。

毎年、秋に、新しいものに替える。

古い綱には、わたしの手の形が、少しずつ、染みている。

撞木の先は、長い年月で、へこんでいる。

歴代の鐘つきが、同じところを打ってきた跡だ。

大みそかの日は、朝から雪だった。

わたしは鐘つき堂の雪をはらって、綱の結び目を確かめた。

撞木の先に、手のひらを当てた。

冷たかった。

夜の十一時四十五分から、百八つのうちの、最初の一つを打つ。

百八つは、人の煩悩の数だと、先代から教わった。

一つ打つごとに、一つ、背中の重荷が、下りるのだという。

わたしには、まだ、重荷のほうが、多い気がした。

それが、わたしの役目だった。

あとの百七つは、参拝の人が、順番に打つ。

最初の一打だけは、毎年、わたしが打つ。

先代の鐘つきが、そう決めた。

先代は八十八で亡くなった。

葬式の日、わたしは、鐘を、一つだけ、ついた。

その音は、ふるえずに、まっすぐ、山に昇っていった。

自分でも、不思議だった。

悲しみで、手が、固まっていたのだと思う。

亡くなる前の年まで、鐘つき堂に立っていた。

第二章 手の震え

五年前から、最初の一打の前に、手が震える。

はじめは、寒さのせいだと思った。

でも、夏の夜に練習をしても、同じだった。

誰もいない鐘つき堂で、一人で、確かめた。

蝉の声のなか、綱を引いても、手は揺れた。

撞木の綱を握る。

引く。

その手前で、指の先が、細かく揺れる。

歳のせいだと思った。

鐘つきの手が、五十代で、衰えるはずはない。

それでも、現に、この指は、揺れている。

体が衰えたのだと。

医者に診てもらった。

麓の町の、小さな診療所だった。

白衣の先生は、手を握ったり、開いたりさせて、首をかしげた。

どこも悪くない、と言われた。

緊張でしょう、とも言われた。

二十九年、打っているのに、いまさら緊張か、と思った。

情けなかった。

鐘は、堂々と打たなければならない。

迷いのない、まっすぐな音で、一年を送るものだ。

先代は、そう言っていた。

先代の一打は、いつも、びくともしなかった。

山の向こうまで、一本の線のように、届いた。

わたしの一打は、違う。

最初の音だけが、ゆらりと、揺れる。

音の頭が、細かく震えて、それから、ゆっくりまっすぐになる。

麓の人たちは、気づいているだろう。

毎年、石段の下に、見知った顔が、並ぶ。

おばあさんたち。子どもを連れた若い夫婦。

みんな、鐘の音を聞いて、手を合わせる。

その人たちに、わたしは、衰えた音を、聞かせている。

鐘つきが、年をとったのだと。

わたしは、その音を、恥じていた。

第三章 やめる決心

十二月の初めに、わたしは住職に話した。

住職は、先代の孫にあたる人で、五十になる。

今年の大みそかで、鐘つきを辞めようと思います、と言った。

住職は、茶碗を置いて、わたしを見た。

庫裏の火鉢で、鉄瓶が、しゅんしゅんと鳴っていた。

何かありましたか、と聞いた。

わたしは、手のことを話した。

最初の一打の前に、震えること。

音が揺れること。

先代のような、まっすぐな音が出せないこと。

住職は、黙って聞いていた。

聞き終えて、少し考えて、言った。

あなたの代わりは、いませんが。

でも、決めるのは、あなたです。

それだけだった。

引き止められなかったことが、少しだけ、さびしかった。

その代わり、住職は、こうも言った。

最後の年だというなら、一つだけ、お願いがあります。

今年の大みそか、若い者に、見せてやってください。

寺には、住職の息子が、修行に戻ってきていた。

二十八になる、若い僧だった。

わたしは、了承した。

第四章 若い僧の話

大みそかの夜、鐘つき堂に、若い僧が来た。

雪が小降りになって、星が出ていた。

十一時を少し過ぎたころで、麓から、人が上がってくる足音が聞こえた。

懐中電灯の光が、石段のあちこちに揺れている。

息が、白かった。

山の空気は、鼻の奥が、痛くなるほど冷たい。

若い僧は、わたしの隣に立った。

しばらく、何も言わなかった。

それから、ぽつりと、言った。

毎年、ここで聞いているんです。

何を、と聞いた。

最初の一打を。

わたしは、驚いた。

若い僧は、続けた。

子どものころから、本堂の縁で、聞いていました。

あの最初の音だけ、ふるえるでしょう。

わたしは、息をのんだ。

若い僧は、前を向いたまま言った。

麓のおばあさんたちが、言っているんです。

あの一打が、ふるえると、ああ、今年も終わるなあと思うって。

まっすぐな音じゃないから、いいんだって。

生きてる音がするって。

わたしは、何も言えなかった。

若い僧は、小さく笑った。

先代の鐘は、立派でした。

でも、わたしが子どものころ、いちばん好きだったのは、あなたの鐘です。

あの揺れを聞くと、胸のところが、きゅっとなる。

なぜだか、手を合わせたくなる。

と、言った。

第五章 ふるえる音

十一時四十分。

鐘つき堂の梁に、積もった雪が、ときどき、ずるりと落ちた。

その音のたびに、わたしの肩が、少し、すくんだ。

石段の下から、人の声が、聞こえはじめていた。

わたしは、撞木の綱を、握った。

手が、細かく震えていた。

いつものように。

わたしは、その震えを、長いあいだ、恥じてきた。

年をとった証拠だと思ってきた。

未熟のしるしだと思ってきた。

でも、そうではなかった。

それは弱さではなかった。

四百年の鐘の前に立つ人間が、ちゃんと震えているということだった。

自分より、はるかに大きく、古いものを前にして、手が勝手に、畏れていた。

その畏れが、音の頭を、ゆらしていた。

麓の人たちは、その揺れを、聞いていたのだ。

震えない手では、あの音は、出ない。

わたしは、息を吸った。

十一時四十五分になった。

若い僧が、小さな声で、言った。

お願いします。

エピローグ

わたしは、綱を引いた。

撞木が、ゆっくり、後ろへ下がった。

一度、止まって、それから、前へ振れた。

手は、震えたままだった。

隠そうとは、しなかった。

鐘が、鳴った。

最初の音は、ゆらりと揺れて、それから、雪の山の向こうへ、まっすぐに伸びていった。

石段の下から、小さな拍手のような音が、聞こえた。

寒さのなかで、手袋の音が、ぱらぱらと、重なった。

わたしは、その音を、長いこと、忘れないだろうと思った。

誰かが、手を合わせたのだと思った。

わたしは、撞木を、若い僧に渡した。

二つ目を、お願いします、と言った。

若い僧は、うなずいて、両手で、綱を握った。

その手も、わずかに、震えていた。

ソウルミッション358

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