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9_消し残した一行

同じ話を繰り返す自分を恥じる元教師に、訪問ヘルパーが、その話に出てくる黒板の一行は自分が書いたもので、繰り返されるたびにうれしいと差し出す。繰り返す口が一人の教室を守っていた。

9_消し残した一行

朗読で聴く

第一章 また、同じ話

わたしは、七十六になる。

長野の、山あいの町に、住んでいる。

三十七年、高校で、国語を教えた。

教科書の、他に、毎週、一篇ずつ、詩を、読ませた。

読んで、感想は、書かなくていい、と、言った。

六十で、退職した。

それから、十六年が、たった。

妻は、五年前に、亡くなった。

子どもたちは、東京と、名古屋に、住んでいる。

わたしは、一人で、暮らしている。

このごろ、自分でも、気がつくことがある。

同じ話を、している。

朝、訪問に来てくれる、ヘルパーさんに、話す。

昼に、また、同じ話を、している。

話しているあいだは、気づかない。

話し終えて、湯のみに、口をつけるとき、はっと、する。

あれは、さっきも、話した、と。

相手の、顔を見る。

にこにこ、笑っている。

笑っているけれど、さっきも、笑っていた。

わたしは、恥ずかしくなる。

話を、やめる。

それでも、翌日には、また、同じ話を、している。

わたしの話は、ひとつしか、残っていない。

黒板の、話だ。

第二章 黒板の話

わたしの、いちばん好きな、話がある。

ある年の、三月の、卒業式の前の日のことだ。

わたしは、教室で、一人、黒板を、消していた。

黒板消しで、端から、一行ずつ、消していく。

チョークの粉が、舞い上がって、夕日の中で、光った。

あの光を、わたしは、一生、忘れないだろうと、思った。

最後に、黒板の、右の隅に、一行だけ、残った。

生徒の、誰かが、書いた、詩の一行だった。

授業の最後に、自由に、書かせたものだ。

その一行が、きれいだった。

わたしは、それを、消さなかった。

消せなかった。

黒板消しを、置いて、そのまま、教室を、出た。

翌朝、用務員さんが、黒板を、消してしまったことだろう。

あの一行は、もう、どこにも、ない。

でも、わたしは、その話を、何度も、何度も、人に、している。

どんな一行だったかは、もう、覚えていない。

きれいだったということだけが、残っている。

わたしは、その黒板消しを、いまも、持っている。

退職のときに、そっと、持ち帰ったものだ。

木の、台の、古いものだ。

台所の棚に、置いてある。

チョークの粉が、まだ、少し、しみこんでいる。

第三章 繰り返す人

訪問ヘルパーの、森山さんは、四十八になる。

体の、がっしりした、明るい人だ。

週に三回、朝と夕に、来てくれる。

掃除をして、食事を、作ってくれて、わたしの話を、聞いてくれる。

もう、三年になる。

森山さんは、洗濯も、買い物も、してくれる。

冷蔵庫の中を、のぞいて、足りないものを、すぐに、見つける。

わたしは、森山さんに、よく、この話をしてしまう。

一日に、二回も、三回も。

森山さんは、毎回、はじめて聞くように、うなずいた。

それが、申し訳なかった。

忙しい人の、時間を、わたしは、くだらない話で、使っている。

同じ話を、繰り返す年寄りは、迷惑だと、わかっている。

わたしは、自分が、そうなってしまったことを、恥じていた。

息子が、電話で、言った。

父さん、同じことを、何回も、言うようになったね、と。

笑って、言った。

責めては、いなかった。

でも、わたしは、その夜、眠れなかった。

わたしの、頭の中が、少しずつ、やせていくのが、わかった。

話す口だけが、残って、中身が、なくなっていくような気がした。

何も、もう、人に、渡せるものは、ない。

わたしは、教師だった。

三十七年、人に、ものを、渡す仕事を、してきた。

それが、いまは、同じ話を、繰り返す、年寄りだ。

ある朝、森山さんに、言った。

もう、同じ話は、しないようにします。

お聞き苦しくて、すみません、と。

第四章 森山さんの話

森山さんは、洗いものの手を、止めた。

それから、エプロンで、手をふいて、わたしの前に、座った。

先生。

わたしは、顔を、上げた。

先生は、わたしを、覚えて、いませんよね。

わたしは、何のことか、わからなかった。

森山さんは、少し、笑った。

三十一年前に、先生の、高校に、いました。

三年生のときです。

先生に、国語を、習いました。

わたしは、驚いて、森山さんの顔を、見た。

小柄で、髪を短く、まとめた、女の子の姿が、ふっと、浮かんだ。

でも、すぐに、消えた。

どこか、見覚えが、ある気がした。

でも、思い出せなかった。

森山さんは、続けた。

先生が、毎回、話してくれる、黒板の話。

最後に、一行だけ、残った詩の、話。

あれ、わたしが、書いたんです。

わたしは、息を、のんだ。

三十一年前の、卒業の、前の日でした。

自由に、書いていい時間に、わたし、一行だけ、書いたんです。

わたしは、はずかしくて、すぐ、席に、戻りました。

その一行を、先生が、消さずに、帰ったんです。

わたしは、次の朝、教室に、来て、見ました。

用務員さんが、来る前に。

黒板の隅に、わたしの一行が、残ってました。

わたし、あの一行を、ずっと、持って、生きてきたんです。

先生。

先生が、毎回、あの話を、繰り返してくれるたびに、わたしの一行が、もう一度、黒板に、浮かぶんです。

先生が、忘れても、話が、覚えていてくれる。

それが、うれしくて。

わたしは、毎回、はじめて聞く顔を、しているんじゃ、ないんです。

毎回、はじめて聞くみたいに、うれしいんです。

わたしは、森山さんの、顔を、見ていた。

森山さんの目から、涙が、頬を、伝っていた。

わたしの頬も、いつのまにか、濡れていた。

第五章 黒板の隅

森山さんが、夕食を、作って、帰ったあと、わたしは、台所に、立った。

棚の上に、黒板消しが、あった。

手に、取った。

木の台が、ずしりと、重かった。

握ると、昔の、手の形が、思い出される。

黒板を、拭く、あの、腕の動きも。

わたしは、この一年、自分を、責めてきた。

同じ話を、繰り返す口を、責めてきた。

何も、渡せない、人間になったと、思ってきた。

もう、役に立たないと、思ってきた。

でも、そうではなかった。

同じ話を繰り返す自分を恥じながら、それでも話し続けたわたしの口が、ひとりの人の、教室を守っていた。

わたしが、いちばん、恥じていた繰り返しが、あの人の、いちばん、待っていた言葉だった。

わたしは、黒板消しを、見た。

粉が、うっすらと、しみこんでいる。

三十一年前の、夕日が、そこに、まだ、残っているような気がした。

エピローグ

翌朝、森山さんが、来る前に、わたしは、起きた。

台所の、棚から、黒板消しを、下ろした。

それから、居間の、机の上に、白い、チョークの箱を、出した。

古い、小さな、黒板が、居間の、壁に、立てかけてあった。

孫が、遊びに来たときに、使う、ものだった。

わたしは、チョークを、一本、取った。

指先が、粉で、白くなった。

それが、なんだか、うれしかった。

一行、書いた。

字は、少し、曲がっていた。

書き終えて、黒板消しを、そっと、隅に、置いた。

やがて、玄関の、戸が、開いた。

おはようございます、先生。

わたしは、黒板を、指さした。

森山さんは、黒板の前に、立った。

しばらく、何も、言わなかった。

それから、わたしの隣に、座って、言った。

先生、その話、もう一度、聞かせてください。

ソウルミッション358

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