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8_網針と、もらいもの

右手が利かず、もらってばかりで何も返せないと責める元漁師に、若い漁師が、あなたの繕った網は一度も破れない、毎朝の魚は順番待ちの手付けだと差し出す。恥じた遅さが町の頼りだった。

8_網針と、もらいもの

朗読で聴く

第一章 戸口のバケツ

朝、玄関の戸を開けると、バケツが、置いてあった。

三陸の、小さな浜の、町に住んでいる。

わたしは、六十九になる。

バケツの中には、魚が、入っていた。

まだ、ぴくぴく、動いている。

今朝は、メバルが、五匹。

昨日は、ホヤが、三つ。

その前の日は、ワカメが、ひと抱え。

誰が、置いていくのかは、わからない。

夜明け前の、まだ暗いうちに、そっと置いていく。

足音を、聞いたことは、ない。

戸の外で、かすかに、バケツの底が、土に当たる音が、するだけだ。

もう、二年になる。

潮の匂いは、変わらない。

変わったのは、わたしの手だけだ。

わたしは、元の、漁師だ。

五十年、船に乗った。

二年前の、冬に、倒れた。

漁から、帰って、船を、岸に、着けたあとだった。

網を、巻いている途中で、手から、力が、抜けた。

脳の、血管が、つまったのだと、医者は言った。

命は、助かった。

でも、右の手が、動かなくなった。

指が、開かない。

物が、つかめない。

船には、もう、乗れなくなった。

わたしは、家に、こもるようになった。

妻は、七年前に、亡くなっている。

わたしは、一人で、暮らしていた。

そこへ、バケツが、届くようになった。

第二章 もらってばかり

わたしは、バケツを、台所に、運んだ。

左の手で、持ち上げる。

魚は、冷たく、光っていた。

うろこの一枚ずつが、台所の、薄い光を、拾っている。

ありがたいと、思った。

でも、同時に、胸が、重かった。

もらってばかりだ。

わたしは、何も、返せない。

網を、引けない。

魚を、捕れない。

船に、乗れない。

わたしが、この町に、役に立つことは、もう、一つも、ない。

そう、毎朝、思った。

思いながら、味噌汁に、メバルを、入れた。

うまかった。うまいのが、また、つらかった。

五十年、この浜で、働いてきた。

みんなに、魚を、分けてきた。

それが、いまは、分けてもらう側だ。

情けないとは、少し、違った。

申し訳ないのだ。

毎朝、バケツを、見るたびに、わたしは、重くなった。

返さなければと、思う。

でも、返すものが、ない。

隣近所の人に、会うたびに、頭を、下げた。

すみません、いつも、すみません、と。

皆は、笑って、手を振った。

誰も、何も、言わなかった。

それが、かえって、苦しかった。

責められたほうが、まだ、楽だったと思う。

第三章 網針

倒れる前、わたしの、いちばんの仕事は、網の、繕いだった。

船に乗らない日は、浜の小屋で、網を、直した。

網の、目が、やぶれたら、網針で、結んで、塞ぐ。

網針は、木の、平たい針だ。

使い込んで、手のひらの形に、すり減っている。

父が、わたしに、くれたものだった。

先が、二股に、なっている。

糸を、巻いて、網の目に、通して、結ぶ。

ひと目ずつ、結ぶ。

わたしは、それが、好きだった。

倒れてから、網針には、触っていなかった。

右の手が、動かないのだから、無理だと、思っていた。

でも、ある日、小屋の、棚の上に、網針が、置いてあるのを、見つけた。

わたしが、使っていた、木の針だった。

手に取った。

左の手で、持った。

網は、なかった。

それでも、糸を、巻いてみた。

ぎこちなかった。

糸が、指に、からまって、ほどくだけで、一苦労だった。

糸が、絡まった。

右の手が、動かないから、網を、押さえられない。

ひと目に、五分も、かかった。

それから、わたしは、小屋に、通うようになった。

誰も、頼んでは、いないのに。

やることが、なかったからだ。

古くなった、網の、切れ端を、床に、広げて、一人で、結んだ。

小屋の窓から、海が、見えた。

船が、一艘、また、一艘と、沖に出ていく。

それを、見ながら、結んだ。

一日かけて、結べたのは、数十だった。

遅かった。

下手でも、あった。

でも、それだけが、わたしの、一日の、用事になった。

第四章 若い漁師

五月の、半ばだった。

小屋で、網を、結んでいると、戸が、開いた。

若い漁師の、翔太が、立っていた。

二十八になる。

日に焼けた、首の後ろに、いつも、塩が白く、ふいていた。

この町で、いちばん、若い漁師だ。

父親の、船を、継いでいた。

翔太は、大きな、網の束を、肩に、かついでいた。

おじさん、頼みたい、ことがあるんですが。

わたしは、驚いた。

何を、ですか。

この網を、繕って、ほしいんです。

翔太は、網を、床に、下ろした。

わたしは、首を、振った。

私の手は、もう、使えない。

遅くて、迷惑を、かけるだけだ。

翔太は、わたしの、顔を、じっと、見た。

それから、言った。

おじさん。

この町の、漁師は、みんな、おじさんの網を、待っています。

わたしは、何のことか、わからなかった。

翔太は、続けた。

おじさんが、結んだ網は、一度も、やぶれたことが、ないんです。

目が、細かい。

遅い、んじゃ、ないんです。

ひと目ずつ、きちんと、結ぶから、遅く見える。

その結び目が、嵐でも、持つんです。

倒れたあと、町の、みんなが、言ってました。

あの人の網が、なくなったら、海に、出るのが、こわい、って。

毎朝、バケツを置いていくのは、礼じゃないんです。

わたしは、聞き返した。

礼じゃ、ない?

翔太は、少し、笑った。

順番待ちの、手付けです。

みんな、あなたに、頼みたかったんですよ。

でも、言い出せなかった。

体が、悪いのに、頼んだら、悪いって。

わたしは、網針を、握った左手が、震えるのを、感じた。

第五章 ひと目ずつ

翔太が、網を、置いて、帰ったあと、わたしは、小屋に、一人でいた。

床に、網が、広がっていた。

目が、大きく、やぶれている。

わたしは、網針を、取った。

左の手で、糸を、巻いた。

ひと目、結んだ。

五分、かかった。

二目、結んだ。

十分、かかった。

遅い。

とても、遅い。

でも、その結び目は、固く、揃っていた。

わたしは、この二年、自分の遅さを、責めてきた。

何も、返せない自分を、責めてきた。

もらうだけの、人間になってしまったと、思ってきた。

でも、そうではなかった。

返せないと責めながら、それでも小屋に通って、ひと目ずつ結び続けたその遅さが、この浜の船を、一艘ずつ、海に出していた。

わたしが、いちばん、恥じていた遅さが、この町の、いちばん、頼りにしていたものだった。

網針の、木の肌が、手の中で、少しだけ、温かかった。

その温かさは、倒れる前と、同じだった。

エピローグ

翌朝、わたしは、夜明け前に、起きた。

玄関の、戸を、開けた。

バケツが、置いてあった。

メバルが、三匹、入っていた。

わたしは、バケツを、持ち上げなかった。

そのまま、戸口に、座って、待った。

空が、少しずつ、白くなっていった。

波の音が、近かった。

カモメが、どこかで、鳴いていた。

やがて、浜の、道の向こうから、足音が、近づいてきた。

男の人の、長靴の、音だった。

わたしは、立ち上がった。

左の手を、上げた。

おはよう。

足音が、止まった。

それから、道の、暗がりの中から、声が、返ってきた。

おはようございます、おじさん。

わたしは、バケツの、魚を、受け取って、頭を、下げた。

今日は、すみませんとは、言わなかった。

網は、いつ、持ってきても、いいよ、と言った。

ソウルミッション358

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