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7_曲がった縫い目

手が震えて縫い目が曲がることを恥じ、店を閉めようとした靴職人に、少年が、亡き父は曲がった縫い目を指でなぞって毎朝出ていったと差し出す。恥じた縫い目が男の頼りの線だった。

7_曲がった縫い目

朗読で聴く

第一章 震える手

金沢の、古い町で、靴の修理屋を、している。

わたしは、五十八になる。

十八のときから、四十年、同じ店の、同じ机に、座ってきた。

先代の親方から、受け継いだ店だ。

間口は、二間もない。

入口の、ガラス戸には、雪の日になると、湯気が、うっすらと、つく。

その向こうを、傘をさした人の影が、よぎる。

壁に、革の切れ端と、木型と、糸が、ずらりと、掛かっている。

かかとの、ゴムを替える。

靴底を、貼りかえる。

革の、すり切れを、直す。

古い靴ほど、直しがいが、あった。

履いた人の癖が、そのまま、残っているからだ。

わたしの仕事の、いちばんの腕は、縫いだった。

靴底を、手で、縫いつける。

針を、二本使って、ひと目ずつ、まっすぐに、糸を、渡していく。

わたしの縫い目は、定規を当てたように、そろっていると、言われた。

それが、わたしの、誇りだった。

五年前から、右手が、震えるようになった。

はじめは、ほんの、わずかだった。

朝、針を持つと、先が、小さく、ゆれる。

夕方には、少し、ましになる。

医者は、年のせいだと、言った。

薬は、効かなかった。

縫い目が、そろわなくなった。

ひと目が、長くなったり、短くなったり、まっすぐに、並ばなくなった。

わたしは、客に、見せるのが、つらかった。

そのうち、客の数が、少しずつ、減っていった。

第二章 十二月

金沢の、十二月は、時雨が、多い。

傘を、忘れても、弁当を、忘れるな、という言葉がある。

それくらい、空が、ころころ、変わる町だ。

その日は、雪が、ちらついていた。

朝から、客が、一人も、来なかった。

わたしは、机の前に、座って、ストーブに、手を、かざしていた。

店を、閉めようか、と思っていた。

年の暮れに、閉めれば、きれいに、終われる。

もう、これ以上、曲がった縫い目を、客に、渡したくなかった。

三年前の、冬を、思い出した。

一人の客が、革靴を、持ってきた。

四十代の、背の高い、男の人だった。

運送の、仕事をしている、と言った。

靴底が、はがれて、いた。

わたしは、縫い直した。

その日は、手の調子が、特に悪かった。

縫い目が、ところどころ、大きく、曲がった。

渡すときに、頭を、下げた。

すみません、縫い目が、そろわなくて。

お代は、半分で、結構です。

その人は、靴を、受け取って、少し、じっと、縫い目を、見た。

それから、言った。

いや、これで、いいです。

そう言って、半分の、お代を、置いて、帰っていった。

わたしは、それから、あの人の顔を、何度も、思い出した。

あの人は、がっかり、したのだろう、と。

第三章 閉めるかどうか

それから、客は、減る一方だった。

三年のうちに、常連の、半分が、来なくなった。

わたしは、悪い、評判が立ったのだと、思った。

靴屋のくせに、縫いが、へたになった、と。

若い、職人に、店を、任せる、という話も、あった。

組合の、人が、持ってきてくれた話だった。

断った。

こんな手の人間が、教えられることなど、ない、と思った。

でも、弟子は、いなかった。

誰も、継がなかった。

それで、よかったとも、思った。

わたしの縫いが、へたになったことを、知る人が、少なくなるからだ。

夜、一人で、店を片づけながら、思った。

木型の、足の形が、並んだ棚を、見上げた。

どの足にも、まだ、持ち主の、歩き方が、残っている気がした。

四十年、まっすぐに、縫い続けてきた。

それが、最後に、曲がって、終わるのは、情けないことだった。

わたしは、自分の右手を、責めた。

手の震えを、止められない自分を、責めた。

お客さんに、申し訳なかった。

亡くなった、先代にも、申し訳なかった。

十二月の、終わりに、店を、閉めよう。

そう、決めた。

第四章 少年の持ってきた靴

十二月の、二十日すぎだった。

店の戸が、からからと、開いた。

子どもが、立っていた。

十二歳くらいの、男の子だった。

紺色の、ダッフルコートを着て、両手で、紙袋を、抱えていた。

雪が、肩に、うっすらと、積もっていた。

店に入る前に、きちんと、払い落とした跡があった。

あの、直して、ほしい靴が、あります。

男の子は、そう言った。

紙袋から、一足の、革靴を、取り出した。

古い、黒い革靴だった。

大人の、男の人の、大きさだった。

底が、はがれかけていた。

わたしは、それを、受け取った。

そして、手が、止まった。

靴底の、縫い目が、見えた。

わたしの、縫い目だった。

三年前の、あの冬に、わたしが、縫った。

ところどころ、大きく曲がった、縫い目。

あの運送屋の、客の靴だった。

男の子が、言った。

父の、靴です。

去年の、春に、死にました。

わたしは、息を、のんだ。

男の子は、続けた。

直してほしいのは、底です。

でも、縫い目は、そのままに、してください。

わたしは、顔を、上げた。

男の子は、まっすぐ、わたしを、見ていた。

父は、この縫い目が、好きでした。

わたしは、聞き返した。

好き、だった?

男の子は、うなずいた。

父は、仕事が、つらいとき、玄関で、この靴を、はく前に、縫い目を、指でなぞっていました。

手が、震えてる人が、縫ってくれたんだ、って、よく、言っていました。

震えながらでも、まっすぐ、歩こうとしてる人の、縫い目だ、って。

だから、おれも、震えながらでも、歩く、って。

そう言って、毎朝、靴を、はいて、出ていきました。

わたしは、靴を、持ったまま、動けなかった。

第五章 縫い目の朝

男の子が、帰ったあと、わたしは、靴を、机の上に、置いた。

ストーブの、赤い火が、革の、艶を、ぼんやりと、照らしていた。

外の、時雨が、いつのまにか、雪に変わっていた。

縫い目を、指で、なぞった。

ひと目ごとに、長さが、違う。

まっすぐ、並んでは、いない。

わたしは、この縫い目を、三年、恥じてきた。

あの運送屋の人が、がっかりしたのだと、思ってきた。

自分の手を、責めて、店を、閉めようとまで、思い詰めてきた。

でも、そうではなかった。

手の震えを恥じながら、それでも縫い続けた縫い目が、一人の男を、毎朝、玄関から、送り出していた。

わたしが、いちばん、恥じていた縫い目が、あの人の、いちばん、頼りにしていた線だった。

わたしは、右手を、見た。

かすかに、震えていた。

わたしは、針を、手に取った。

エピローグ

その夜、わたしは、靴底を、縫い直した。

曲がった縫い目は、そのままに、した。

はがれた部分だけ、新しい糸で、縫った。

手は、震えた。

息を、止めると、かえって、ひどくなる。

だから、ゆっくり、吐きながら、通した。

それでも、ひと目ずつ、針を通した。

縫い目は、少し、曲がった。

わたしは、それを、直さなかった。

年が明けて、一月の、はじめに、男の子が、靴を、取りに来た。

わたしは、靴を、紙袋に、入れて、渡した。

お代は、いらない、と言った。

男の子は、首を、横に、振った。

ポケットから、小銭を、出して、机の上に、置いた。

わたしは、それを、受け取った。

男の子は、店の戸を、開けて、出ていった。

戸の外で、雪が、降っていた。

わたしは、机の前に、座って、新しい糸を、針に、通した。

ソウルミッション358

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