6_手を振る時刻
長居を叱られお茶をやめた郵便配達員に、老人の孫が、祖父は配達の時刻に毎日着替えて待っていたと差し出す。直したい癖が老人の一日の始まりだった。

朗読で聴く
第一章 最後の家
わたしは、六十になる。
熊本の、山あいの町で、郵便を、配っている。
三十五年に、なる。
二十五で、この町に、嫁いできて、そのまま、配達を、はじめた。
夫は、六年前に、病気で亡くなった。
赤い、小さなバイクで、山の道を、のぼっていく。
谷の風は、朝のうちは、冷たい。
手袋をしていても、郵便の束を持つ指が、かじかむ。
朝の八時に、局を出て、午後の二時ごろに、戻る。
コースの、いちばん奥に、一軒だけ、家がある。
谷の、行き止まりの、古い家だった。
住んでいるのは、泰造さんという、八十八のおじいさんだ。
奥さんは、十年前に、亡くなった。
息子さんも、娘さんも、熊本の市内に、出ている。
盆と正月には、帰ってくるが、泊まらずに、帰る。
泰造さんは、一人で、暮らしていた。
その家には、手紙は、あまり、来ない。
年金の通知。電気代の、お知らせ。
たまに、市内に住む孫からの、はがき。
月に、四、五通だった。
それなのに、局の中では、谷の、行き止まりの家は、手間が、かかる、と言われていた。
往復で、一時間ちかく、かかるからだ。
それでも、わたしは、毎日、その家まで、バイクを、のぼらせた。
郵便受けは、門のわきの、木の、古いものだった。
雨にさらされて、色が、抜けていた。
わたしは、いつも、その前で、バイクを止めた。
すると、おじいさんが、縁側から、出てくるのだった。
第二章 長居
泰造さんは、わたしが、郵便受けの前に、立つと、必ず、言った。
お茶でも、飲んでいかんね。
手紙の、あるなしに、かかわらず。
最初は、断った。
こちらは、制服を、着ている。
勤務中に、よその家で、お茶を飲むなど、とんでもない、と思っていた。
仕事が、あるからと。
でも、何度か、断ったあと、一度だけ、腰を下ろした。
縁側で、お茶を、一杯、ごちそうになった。
それから、そのお茶は、毎日になった。
一杯が、二杯になり、十分が、三十分になった。
泰造さんは、話が、好きだった。
山の話。畑の話。奥さんが、生きていたころの話。
栗の木の、剪定の仕方を、教わった。
梅干しの、塩の量を、教わった。
どれも、わたしの家では、使わない、知恵だった。
わたしは、黙って、聞いていた。
聞いているうちに、時間が、すぎていった。
局に戻るのが、遅くなった。
そのうち、苦情が、来はじめた。
谷の、手前の家から。
郵便が、遅い、と。
夜に、なってから届く日が、ある、と。
局長が、わたしに、言った。
あまり、一軒に、長居をしないように。
わたしは、頭を、下げた。
返す言葉は、なかった。
その通りだったからだ。
第三章 お茶をやめた日
八月の、二十日に、わたしは、決めた。
お茶を、やめようと。
長居をするのは、わたしの、悪い癖だ。
三十五年やってきて、この年になって、そんなことで、叱られる。
自分が、情けなかった。
その日から、わたしは、郵便受けの前で、バイクを、止めなかった。
ゆっくり、走りながら、手紙を、入れた。
縁側の、おじいさんに、手を、振った。
それだけで、通りすぎた。
ミラーの中で、縁側が、だんだん、小さくなった。
おじいさんは、縁側に、座っていた。
立ち上がりかけて、座り直して、わたしに、手を、振り返した。
その顔が、少し、小さく見えた。
いつもより、背が、丸く見えた。
翌日も、そうした。
その次の日も。
そして、五日めの、朝だった。
郵便受けの前に、バイクを、止めようとして、気がついた。
縁側に、おじいさんが、いなかった。
雨戸が、閉まっていた。
朝なのに、家の中が、暗かった。
昨日、入れた手紙が、まだ、郵便受けの中に、あった。
わたしは、胸が、ひやりと、した。
家の、戸を、たたいた。
返事が、なかった。
近所の人に、連絡した。
泰造さんは、前の晩に、眠ったまま、亡くなっていたと、あとで、聞いた。
第四章 孫の話
わたしは、それから、毎日、思った。
お茶を、やめたからだ、と。
わたしが、あの人から、楽しみを、取り上げたのだ、と。
最後の四日間、あの人は、縁側で、わたしの背中を、見ていたのだ、と。
わたしが、手を振って、通りすぎる、その背中を。
九月の、はじめに、泰造さんの孫が、家の、片づけに来た。
三十五歳くらいの、女の人だった。
熊本市内に、住んでいるという。
わたしは、郵便受けの前で、バイクを、止めた。
彼女は、玄関から、出てきた。
郵便屋さん。
あの、祖父が、お世話に、なりました。
わたしは、頭を、下げた。
声が、出なかった。
彼女は、ポケットから、小さな、ノートを、取り出した。
祖父の、日記です。
読んでも、いいですか。
わたしは、うなずいた。
彼女は、最後の何頁かを、開いて、読み上げた。
八月二十二日。今日も、郵便屋さんが、来た。
茶は、断られた。いそがしいのだろう。
でも、手を、振ってくれた。いい日だ。
八月二十三日。今日も、手を、振ってくれた。
わたしも、振り返した。
彼女は、顔を、上げた。
祖父は、毎朝、八時前に、着替えていました。
シャツを、着て、ズボンを、はいて、縁側に、出て。
あなたが来るのを、待っていたそうです。
お茶を、出せなくなってからも、毎日。
長居は、迷惑だと、あなたは、思っていたでしょう。
でも、祖父にとっては、あなたが来る、時刻が、一日の、始まりだったんです。
わたしは、何も言えなかった。
郵便受けの、色の抜けた、木の肌を、見ていた。
第五章 時刻
その晩、わたしは、家の、台所に、座っていた。
三十五年、わたしは、自分のことを、遅い人間だと、思ってきた。
同期の人たちは、とうに、市内の、大きな局に、移っていった。
わたしだけが、山の、谷の、同じ道を、走っている。
長居をする。話が、長い。局に、戻るのが、遅い。
何度、叱られても、直らなかった。
直らない自分を、責めてきた。
お茶を、やめたとき、これで、少しは、ましな人間に、なれると、思った。
でも、そうではなかった。
長居を責めながら、それでも、あの人の縁側に、バイクを、向け続けたことが、あの人の一日の、始まりをつくっていた。
わたしが、いちばん、直したいと思っていた癖が、あの人の、いちばん、待っていた時間だった。
わたしは、立ち上がって、窓の外を、見た。
谷の、向こうの、山の端が、うすく、赤かった。
あの家の、縁側にも、同じ夕日が、射していたのだろう。
エピローグ
九月の、半ばに、わたしは、いつもの時刻に、局を、出た。
山の道を、のぼって、谷の、いちばん奥まで、バイクで行った。
泰造さんの家は、戸が、閉まっていた。
郵便受けの前で、バイクを、止めた。
エンジンを、切った。
手紙は、一通も、なかった。
バッグの中を、もう一度、探した。
ほんとうに、一通も、なかった。
それでも、わたしは、バイクから、降りた。
縁側の、方を、向いた。
誰も、いなかった。
わたしは、右手を、上げた。
ゆっくり、二度、振った。
山の、風が、郵便受けの、まわりの草を、揺らしていた。
わたしは、そのまま、しばらく、立っていた。
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