← あなたの魂のテーマを探す に戻る

5_二回めのただいま

耳が遠く妻に何度も言い直させたと悔やむ夫に、隣の老婆が、聞き返されるのが嬉しい、生きてる気がすると妻は言っていたと差し出す。聞こえない耳が妻の声を二倍にしていた。

5_二回めのただいま

朗読で聴く

第一章 え、と聞く人

わたしは、七十一になる。

秋田の、雪の多い町に、住んでいる。

三十八年、路線バスを、運転した。

六十五で、退職した。

雪の朝の、始発を、何度、運転したか、わからない。

ワイパーが、雪を、かき分ける。

客は、数えるほどだった。

それから、六年が、たった。

家には、わたし一人だ。

朝、起きると、まず、仏壇の、水を替える。

それが、わたしの、一日の、最初の仕事だ。

妻の文子は、去年の、十月に、亡くなった。

六十九だった。

病気が、見つかってから、半年だった。

医者の話も、わたしは、半分しか、聞き取れなかった。

文子が、あとから、紙に、書いて、見せてくれた。

わたしは、耳が、遠い。

五十代の、終わりごろから、聞こえが、悪くなった。

バスの運転は、できた。

前を見て、ブレーキを踏む仕事だ。

乗客の声は、ミラーで、顔を見て、わかった。

でも、家の中の話は、聞き取れなかった。

文子が、台所から、何か言う。

わたしは、新聞を、読んでいる。

え、と聞く。

なんだって、と聞く。

文子が、もう一度、言う。

それでも、聞こえないことが、あった。

そのたびに、文子は、少し間をおいて、もう一度、言った。

ご飯よ、と。

お風呂、わいたよ、と。

何度も、何度も。

あの人は、十年のあいだ、同じことを、二度ずつ、言ってきたのだ。

第二章 缶の中

補聴器は、持っていた。

息子に、買わされた。

三十万円も、した。

そんなものに、金を、使うなと、わたしは、怒った。

小さな、肌色の機械だ。

でも、わたしは、あまり、つけなかった。

つけると、耳の中が、ごうごうと鳴る。

食器の音も、足音も、全部が、大きくなる。

疲れた。

それに、あれをつけると、年寄りになったような気がした。

だから、つけなかった。

使わないときは、小さな、四角い缶に入れて、茶箪笥の引き出しに、しまっておいた。

妻に、つけなさいと言われるたびに、わたしは、言った。

大丈夫だ。ちゃんと、聞こえる。

聞こえていなかった。

それなのに、意地を、張った。

意地を張ったのは、聞こえないと、認めるのが、こわかったからだ。

運転手が、人の声を、聞き取れないなんて、情けないと、思っていた。

文子は、そのたびに、少し、笑って、何も言わなかった。

笑ったあと、また、同じことを、二度言った。

文子が、入院してから、最後の二か月は、病室で、過ごした。

あの人は、声が、細くなっていた。

わたしは、ベッドの横の椅子に、座って、顔を、近づけた。

何だって。

もう一回、頼む。

文子は、そのたびに、ゆっくり、息を吸って、言い直した。

その手間が、どれだけ体に、こたえたか。

わたしは、考えもしなかった。

第三章 聞こえすぎる家

葬式が、終わった。

それから、わたしは、はじめて、補聴器を、毎日、つけるようになった。

遅すぎた。

家の中が、よく聞こえるようになった。

時計の音。冷蔵庫の音。雪が、屋根から落ちる音。

ガスの火が、ぼっと、つく音。

やかんの、湯が、わく前の、小さな音。

でも、それらは、ぜんぶ、わたしに向けた音では、なかった。

誰も、わたしを、呼ばない。

夕方になると、つい、台所の方を、向いてしまう。

そこに、文子の背中が、あるような気がして。

誰も、ご飯だ、と言わない。

聞こえるようになって、はじめて、わかった。

この家は、こんなに、静かだったのだ。

わたしが、聞こえないふりを、していたあいだ、この静けさは、文子が、一人で、聞いていたのだ。

わたしは、自分を、責めた。

もっと早く、つけていれば。

もっと早く、医者に、行っていれば。

文子に、同じことを、二度も、言わせなかったのに。

十年ぶんの、二度ずつを、数えてみた。

数えきれなかった。

一日に、十回としても、三万六千回を、超える。

それだけ、あの人を、疲れさせた。

そう思うと、手のひらが、冷たくなった。

缶は、引き出しの、いつもの場所に、戻してあった。

わたしは、ときどき、その缶を、取り出して、ふたを開けた。

空だった。

補聴器は、いまは、耳に、ついている。

空の缶を、しばらく、眺めて、戻した。

第四章 となりのおばあさん

二月の、はじめだった。

隣の家の、トミさんが、玄関に来た。

八十二になる、小さな人だ。

雪かきを、手伝ってやったお礼だと言って、煮物を、持ってきた。

里芋と、ごぼうの、甘辛く煮たものだった。

文子が、よく、作った味に、似ていた。

わたしは、上がってもらった。

居間で、お茶を、出した。

トミさんは、仏壇の、文子の写真に、手を合わせた。

それから、わたしを、見た。

あんた、聞こえるようになったんだってね。

わたしは、うなずいた。

遅かったですよ、と言った。

トミさんは、首を、かしげた。

遅かった?

文子さんに、聞かせてやれば、よかった。

トミさんは、少し、笑った。

あんたは、知らないんだね。

文子さんが、わたしに、言ってたこと。

何を、ですか。

あんたが、聞き返すたびに、文子さんは、うれしそうだった。

わたしは、トミさんの顔を、見た。

疲れていたでしょう、と言った。

十年、同じことを、二度、言わされて。

トミさんは、首を、振った。

いいえ。

文子さんは、わたしに、こう言ったのよ。

お父さん、一回で、わかったときは、わたし、もう言うこと、ないんだよね。

聞き返されると、もう一回、言えるでしょう。

その一回が、うれしいのよ。

生きてるって、気がするんだって。

わたしは、何も言えなかった。

トミさんは、煮物の鉢を、茶の間の、机に置いて、立ち上がった。

あの人は、あんたの、え、が、好きだったのよ。

第五章 二回ぶんの声

トミさんが、帰ったあと、わたしは、長いこと、座っていた。

雪が、窓の外に、静かに、降っていた。

雪の降る夜は、音が、吸われる。

補聴器を、つけているのに、静かだった。

わたしは、自分の耳を、責めてきた。

聞こえないことを、恥じてきた。

あの人を、疲れさせたと、思ってきた。

十年の、二度ずつを、数えては、胸を、痛めてきた。

でも、そうではなかった。

聞こえなかった耳を恥じながら、それでも聞き返し続けたわたしの声が、あの人に、二度めを、言わせていた。

聞き返した、そのたびに、あの人の声は、もう一度、この家に、響いた。

わたしが、いちばん、だめだと思っていた耳が、あの人の声を、二倍に、していたのだ。

わたしは、茶箪笥の、引き出しを、開けた。

小さな、四角い、缶が、そこにあった。

空の、缶だった。

ふたを、閉めた。

それから、台所に、行った。

誰もいない、冷たい台所だった。

エピローグ

その夜、わたしは、玄関から、入りなおした。

外に出て、雪の上に、立った。

それから、戸を開けて、中に入った。

ただいま。

返事は、なかった。

台所の、電気が、静かに、ついていた。

朝に、つけたまま、出かけたのを、思い出した。

わたしは、補聴器を、そっと、押さえた。

もう一度、少し、大きな声で、言った。

ただいま。

冷蔵庫が、ぶうんと、鳴った。

わたしは、それで、満足して、靴を脱いだ。

ソウルミッション358

あなたの魂のテーマに気づく場所