← あなたの魂のテーマを探す に戻る

4_父の字

字の下手さを恥じて娘の連絡帳に書き続けた父に、娘の婚約者が、娘は七冊すべてを捨てずに持っていたと差し出す。恥じた字が娘の朝をつくっていた。

4_父の字

朗読で聴く

第一章 前の晩

娘が嫁ぐ前の晩に、わたしは、台所で、一人で、湯をわかしていた。

広島の、瀬戸内の、小さな島に、住んでいる。

わたしは、四十七になる。

島の、市役所の支所で、戸籍の窓口に、座っている。

生まれた人の届けを、受ける。

亡くなった人の届けを、受ける。

結婚の届けも、受ける。

明日は、娘の、結婚式だった。

娘は、沙耶という。

二十四になった。

母親は、沙耶が、八つのときに、病気で、亡くなった。

それから十六年、父親が、わたし一人で、育てた。

育てた、というほどのことは、できなかった。

朝は、味噌汁を、作る。

島の朝は、船の汽笛で、始まる。

対岸の町へ渡る、フェリーの音だ。

その音を聞きながら、わたしは、いつも、卵を焼いた。

弁当を、詰める。

夜は、早く、帰る。

それだけだった。

それ以外のことは、ほとんど、うまくできなかった。

娘は、二階の、自分の部屋で、荷づくりをしていた。

ときどき、箱を、閉じるガムテープの音が、階下まで、聞こえた。

もう、この家で、あの音を聞くことは、ないのだと思った。

第二章 ミミズの字

わたしは、字が、へただ。

子どものころから、そうだった。

先生に、読めない、と言われた。

大人になっても、直らなかった。

書類に、名前を書くたびに、手が、こわばった。

ペンを持つ指に、力が入りすぎて、線が、ふるえた。

役所に勤めて、窓口に座れば、字を書く機会は、いくらでもある。

戸籍の窓口の人間が、あんな字では、と、陰で言われたこともある。

若いころは、気にしていた。

いまは、慣れた。

慣れたけれど、恥ずかしさが、なくなったわけではない。

とくに、忘れられないのが、娘の、連絡帳だった。

小学校の三年から、中学を出るまで、毎日、連絡帳が、あった。

保護者の欄に、毎朝、ひとこと書いて、印を押す。

宿題を、見ました。

熱は、ありません。

遠足の、お弁当を、持たせます。

わたしが、毎朝、台所の机で、それを書いた。

ミミズが、はったような、字だった。

一度、担任の先生が、授業参観のあとで、言った。

お父さん、字のことは、お気になさらずに。

読めますから。

わたしは、頭を下げた。

顔が、熱くなった。

その夜、娘に、聞いてしまった。

お父さんの字、はずかしくないか。

娘は、何も言わずに、連絡帳を、胸に、かかえた。

それから、ぷいと、自分の部屋へ、行ってしまった。

わたしは、それを、返事だと思った。

第三章 見せたくなかった字

その後も、連絡帳は、毎朝、書いた。

書かないわけには、いかなかった。

でも、書くたびに、娘が、友だちに、この字を見られていたら、と思った。

中学の、卒業式の日。

娘は、最後の連絡帳を、わたしに見せなかった。

あの子は、卒業の日に、連絡帳を、すべて、持って帰ってきた。

わたしは、捨てるのだと、思った。

捨てて、くれたほうが、いいとも、思った。

あの字を、あの子の人生に、残したくなかった。

それなのに、あの連絡帳が、どうなったのか、聞けなかった。

聞けば、捨てたと、言われそうで、こわかった。

高校に入ってからは、娘は、自分で、何でも、書くようになった。

わたしは、字を、書かなくてよくなった。

ほっとした。

ほっとした自分が、少し、さびしかった。

娘は、わたしの字を、見なくなった。

わたしの字は、もう、娘の朝には、いらないのだと、思った。

それ以来、娘とは、あまり、字の話をしなかった。

進路の書類も、就職の書類も、娘が、自分で、書いた。

保護者の欄だけ、わたしが、署名した。

その署名を、娘が、じっと見る目が、わたしは、いつも、苦手だった。

第四章 婚約者の持ってきたもの

湯が、わいた。

わたしは、急須に、湯を注いだ。

そのとき、玄関の、チャイムが鳴った。

こんな時間に、誰だろうと思って、戸を開けた。

娘の婚約者が、立っていた。

大輔くん。

二十八になる、福山の、人だった。

明日は、早いのに、こんな夜に、すみません、と彼は言った。

手に、紙袋を、提げていた。

お父さんに、お見せしたいものが、あって。

沙耶さんには、内緒で、来ました。

わたしは、彼を、居間に、上げた。

大輔くんは、紙袋から、束を、取り出した。

木綿の、白い紐で、きちんと、結んである。

紙の束だった。

古い、ノートが、七冊。

表紙は、日に焼けて、かどが、丸くなっている。

わたしは、それを、見て、わからなかった。

彼は、紐を、ほどいて、一冊を、開いた。

連絡帳だった。

娘の、小学三年の、五月の、頁だった。

保護者の欄に、ミミズが、はったような、字が、並んでいた。

わたしの字だった。

大輔くんが、静かに、言った。

沙耶さんの、押し入れから、出てきました。

引っ越しの荷物の、いちばん奥に、入っていたんです。

一冊も、捨てていません。

七冊とも、順番どおりに。

わたしは、声が、出なかった。

彼は、続けた。

沙耶さんが、前に、話してくれたことがあります。

お母さんが、亡くなったあと、朝が、こわかった、と。

家の中が、静かで。

でも、台所の机に、連絡帳が、置いてあって。

お父さんの字が、そこに、書いてあった。

その字を、見ると、ああ、今日も、朝が、始まるんだなって、思えたそうです。

あの字じゃないと、一日が、始まらなかった、って。

第五章 ミミズの字の朝

大輔くんが、帰ったあと、わたしは、居間に、一人で、座った。

連絡帳を、一冊ずつ、開いた。

どの頁も、わたしの字が、並んでいた。

小三の、春の頁は、特に、ひどかった。

鉛筆の芯を、舐めながら、書いたのだ。

線が、紙に、食いこんでいる。

恥ずかしかった、あの字が。

宿題を、見ました。熱は、ありません。お弁当を、持たせます。

どれも、へたで、曲がっていて、読みにくかった。

わたしは、この字を、十六年、恥じてきた。

娘に、見せたくないと、思ってきた。

ずっと、書かないで済む日を、待っていた。

でも、そうではなかった。

自分の字を恥じながら、それでも毎朝、書き続けた手が、あの子の朝を、つくっていた。

恥じて、それでも、机に向かった、その曲がった線が、あの子の、一日の入り口だった。

わたしが、いちばん、見せたくなかったものを、あの子は、いちばん、大事にしていた。

最後の一冊を、開いた。

中学三年の、三月。

最後の頁の、保護者の欄が、空いていた。

日付だけが、娘の字で、書いてあった。

あの子は、卒業の日に、この欄を、わたしに、見せなかったのだ。

書かせなかったのではなく、残したのだと、わたしは、思った。

エピローグ

結婚式の朝。

娘は、白い、着物を着て、玄関に、立っていた。

わたしは、スーツの、胸のポケットから、ボールペンを、取り出した。

一冊の、連絡帳を、持ってきていた。

最後の頁の、空いた欄を、開いた。

娘が、目を、見開いた。

わたしは、そこに、ペンを、置いた。

ゆっくり、一字ずつ、書いた。

しあわせに。

ミミズが、はったような、字だった。

娘は、それを、じっと、見ていた。

それから、小さく、笑った。

笑って、連絡帳を、胸に、かかえた。

あの、中学の卒業のときと、同じ仕草だった。

ソウルミッション358

あなたの魂のテーマに気づく場所