2_縁側のコップ
孫を転ばせて腕を折らせたと自分を責め、毎夏縁側に麦茶を二つ置き続けた祖母に、嫁が孫の絵日記を差し出す。そこには、ばあちゃんは悪くない、とあった。責めながら置いたコップが孫の帰る場所だった。

朗読で聴く
第一章 二つのコップ
長崎の、坂の町に、住んでいる。
わたしは、七十六になった。
家は、坂の、いちばん高いところにある。
上るのに、石段が、百二十段ある。
買い物の帰りは、途中で、三回、休む。
それでも、この家から、引っ越そうと、思ったことはない。
坂の上からは、港が、見えるからだ。
夫が、毎朝、畳を縫いながら、眺めていた景色だ。
夫は、畳屋だった。
この家の一階で、五十年、畳を縫っていた。
五年前に、七十一で、亡くなった。
それで、店は、閉めた。
奥の作業場には、いまも、畳針と、物差しが、そのまま置いてある。
わたしは、その家に、一人で暮らしている。
八月になると、毎日、午後に、縁側に出る。
麦茶を、冷やしておいて、コップに、ついで、縁側に、二つ置く。
一つは、わたしの。
もう一つは、孫の。
孫は、太一という。
夫が生きていたころは、畳の端切れで、小さな座布団を、作ってやった。
いまも、押し入れに、一枚、残っている。
九つになる。
福岡に住んでいて、毎年、八月の、初めに、遊びに来る。
去年までは、そうだった。
今年は、まだ、来ていない。
それでも、わたしは、二つ、置く。
氷が、からん、と鳴って、溶けていく。
もう一つのコップは、飲まれないまま、汗をかく。
第二章 去年の夏
去年の八月の、十五日だった。
長崎では、その夜に、しょうろう流しがある。
ろうそくと、提灯をのせた、大きな船を、みんなで、坂の下まで、引いていく。
爆竹が、鳴る。
火薬の匂いが、坂の上まで、上がってくる。
鐘が、鳴る。
にぎやかで、そして、少し、さびしい夜だ。
その夕方、わたしは、台所にいた。
縁側のほうから、遠くで、爆竹の音が、聞こえはじめた。
縁側には、太一がいた。
わたしは、台所から、声をかけた。
太一。船が、見えるよ。早く、おいで。
太一は、はしゃいで、立ち上がった。
庭の先の、石段の上から、坂の下が、見える。
太一は、そこへ、走っていった。
石段の、いちばん高い段で、足が、すべった。
音は、短かった。
わたしは、台所から、走った。
太一は、石段の、五段ほど下に、うずくまっていた。
右の腕を、左の手で、かばっていた。
泣かなかった。
歯を食いしばって、わたしを見た。
骨が、折れていた。
医者は、きれいに折れているから、よくつく、と言った。
それが、少しも、慰めに、ならなかった。
夜の病院で、白い石こうが、右腕に、巻かれた。
わたしは、待合室の椅子で、手を、膝の上で、ずっと、握りしめていた。
わたしが、呼んだのだ。
早く、おいで、と。
あの呼び声が、あの子を、走らせた。
第三章 麦茶の一年
それから、一年が、たった。
わたしは、毎日、そのことを、考えた。
石段を、見るたびに、考えた。
夫の畳針を、片づけようとして、やめた日もある。
針の先に、まだ、藺草の匂いが、残っている気がした。
縁側に出るたびに、考えた。
わたしが、もう少し、ゆっくり、呼んでいたら。
船は、逃げないのだから、と。
嫁からは、何も、責められなかった。
電話の向こうで、嫁は、いつも、笑っていた。
お母さん、気にしないでください、と。
電話では、いつも、やさしかった。
かえって、それが、つらかった。
冬も、春も、太一は、来なかった。
正月には、年賀状が、届いた。
太一の字で、あけましておめでとう、とだけ、あった。
絵は、なかった。
学校があるのだから、仕方がない、と、嫁は言った。
わたしは、そうだね、と答えた。
でも、わたしには、わかっていた。
あの子は、もう、この家に、来たくないのだ。
石段が、こわいのだ。
あの夜の、わたしの声も、思い出すのだろう。
だから、八月になって、来なかったことも、不思議では、なかった。
それでも、麦茶は、冷やした。
朝のうちに、大きなやかんで、沸かして、冷ます。
麦の、香ばしい匂いが、台所に、広がる。
コップは、二つ、出した。
やめたら、あの子が、本当に、来ないことに、なる気がした。
第四章 嫁の来た日
八月の、十日すぎだった。
玄関のほうで、声がした。
嫁が、一人で、立っていた。
福岡から、石段を上って、少し息を切らしていた。
太一は、野球の合宿で、来られないのだという。
腕は、とっくに、治っている。
もう、ボールも、投げているらしい。
ピッチャーに、なりたいのだそうだ。
あの腕で、と、わたしは、思った。
わたしは、胸のどこかが、少しだけ、ゆるんだ。
縁側で、嫁にも、麦茶を出した。
嫁は、しばらく、庭を見ていた。
庭の隅の、朝顔が、まだ、咲いていた。
それから、かばんから、一冊の、ノートを出した。
お母さん。
これ、見ていただきたくて。
太一の、絵日記です。
去年の、夏休みのです。
ノートの表紙は、色が、少しあせていた。
嫁は、ある頁を、開いて、わたしの前に、置いた。
画用紙の、半分が、青かった。
縁側が、描いてあった。
コップが、二つ、並んでいた。
その横に、小さな字で、書いてあった。
八月十五日。ばあちゃんちの、石段で、ころんだ。うでが、おれた。
その下に、続きがあった。
ばあちゃんが、おれより、いたい顔をした。
ばあちゃんは、わるくない。おれが、はやく、走った。
だから、もう、ころばないことにした。
わたしは、その頁を、長いこと、見ていた。
嫁が、静かに、言った。
今年の絵日記の、最初の頁も、縁側なんです。
お盆に、連れてくるって、約束させられました。
第五章 待っていた縁側
嫁が帰ったあと、わたしは、縁側に、一人で座った。
二つのコップが、並んでいた。
わたしは、この一年、自分を責めてきた。
あの夜の、一言を、毎日、思い返してきた。
あの子が来ないのは、わたしのせいだと、思ってきた。
あの子の絵の中では、わたしは、転ばせた人では、なかった。
でも、そうではなかった。
自分を責めながら、それでも、毎日、麦茶を二つ置いた一年は、あの子の絵の中では、待っていてくれる縁側だった。
責めて、責めて、それでも、コップを出し続けた手が、あの子の帰る場所を、守っていた。
わたしが、いちばん、だめだと思っていた夏が、あの子の、いちばん、描きたい夏だった。
氷が、からん、と鳴った。
夫が死んだときも、そうだった。
悲しみは、毎日の、小さな用事の中に、少しずつ、とけていった。
もう一つのコップの、麦茶が、ゆっくり、ゆれた。
わたしは、その汗をかいたコップを、そっと、手に取った。
エピローグ
お盆の、前の日に、太一が、来た。
石段の下から、声が、聞こえた。
ばあちゃん。
わたしは、縁側から、立ち上がった。
庭の先に出て、石段の、上に立った。
下で、太一が、見上げていた。
日に焼けて、少し、背が伸びていた。
右の腕が、ちゃんと、動いていた。
わたしは、口を開けて、そして、閉じた。
早く、おいで、とは、言わなかった。
代わりに、手すりを、つかんで、そのまま、待った。
太一は、一段ずつ、ゆっくり、上ってきた。
いちばん高い段で、立ち止まって、わたしを見た。
わたしは、縁側を、指さした。
コップが、二つ、並んでいた。
氷は、まだ、溶けていなかった。
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