← あなたの魂のテーマを探す に戻る

1_洗ってある弁当箱

学校に行かない息子のために責めながら弁当を作り続けた母に、用務員が、息子は毎朝校門まで来て弁当を食べ箱を洗って帰ると差し出す。責めて詰めた弁当があの子の朝の道をつくっていた。

1_洗ってある弁当箱

朗読で聴く

第一章 四時四十分

わたしの朝は、四時四十分に、始まる。

栃木の、海のない町の、小さな惣菜店で、働いている。

四十一になった。

店は、朝の六時に、揚げものを、並べはじめる。

コロッケ。唐揚げ。ひじきの煮もの。

店の油の匂いは、髪にも、服にも、しみつく。

家に帰っても、取れない。

健太は、その匂いが、苦手だったのかもしれない。

だから、わたしは、その前に、店に入る。

息子が寝ているうちに、家を出る。

息子は、健太という。

中学二年の、十四歳だ。

夫とは、健太が小学校に上がる前に、別れた。

それから、二人で暮らしている。

養育費は、もらっていない。

もらわないと、自分で決めた。

健太は、四月から、学校に行っていない。

朝、起きてこない。

部屋の戸は、いつも、閉まっている。

戸の隙間から、細く、光がもれる夜もある。

わたしは、その光を見て、ほっとする。

わたしが、いなくなったあとに、起きるのかもしれない。

それも、よくわからない。

わたしは、毎朝、店に出る前に、台所の机に、弁当を置いていく。

四角い、銀色の、弁当箱。

毎朝、同じ形に、詰める。

彩りなんて、考えている余裕は、ない。

ふたに、ゴムのパッキンがついた、安いものだ。

健太が、小学生のころから、使っている。

夜、帰ってくると、弁当箱は、流しの水切りに、伏せてある。

電気をつけなくても、銀色が、うっすら光る。

きれいに、洗ってある。

それを見るたびに、わたしは、思う。

食べているのだ。

食べているのなら、まだ、だいじょうぶなのだ、と。

第二章 梅雨

六月の町は、毎日、雨だった。

山のほうの空が、ずっと、灰色だった。

店の屋根を、雨がたたく音を聞きながら、わたしは、油の前に立っていた。

コロッケを揚げる。

一つずつ、ころもをつけて、油に、そっと入れる。

その手を動かしながら、わたしは、いつも、同じことを考えている。

わたしのせいだ、と。

朝が早い。帰りが遅い。夜は、疲れて、口数が少ない。

健太が、小学生のころから、そうだった。

一人で、起きて、一人で、鍵を持って、学校に行った。

一人で、帰ってきた。

わたしは、そのことを、仕方がないと、言い聞かせてきた。

でも、仕方がなくなんか、なかったのかもしれない。

一度、忘れられない夜がある。

去年の、冬だった。

健太が、学校のことで、何か言いかけた。

わたしは、洗いものをしていた。

疲れていて、手が、ふさがっていて、背中を向けたまま、言った。

あとにして。あんたまで、わたしを困らせないで。

健太は、何も言わずに、部屋へ戻った。

あの夜から、あの子は、わたしに、何も言わなくなった。

わたしは、あの夜を、毎晩、思い出す。

第三章 空の箱

それでも、弁当は、作り続けた。

健太が、食べても、食べなくても、作ると決めていた。

卵焼き。ほうれん草の、おひたし。唐揚げが、二つ。

夜、流しに、洗った箱が、伏せてある。

ある日、気がついた。

箱の洗い方が、だんだん、丁寧になっている。

ふたの溝まで、きれいだった。

パッキンが、外してあった。

外して、洗って、元に戻してあった。

わたしは、その箱を、手に取って、しばらく、見ていた。

食べているだけでは、ないのだ、と思った。

でも、それが、何を意味するのかは、わからなかった。

わからないまま、六月が、終わりかけていた。

店の前の、紫陽花の色が、青から、紫に、変わった。

店には、常連の、お客さんがいる。

小学校と、中学校の、用務員をしている、七十すぎの、男の人だった。

毎週、水曜日の、夕方に来て、コロッケを、二つ買う。

いつも、無口で、小銭を、きちんと数えて出す。

その水曜日は、雨が、特にひどかった。

お客さんは、その人ひとりだった。

わたしが、コロッケを、袋に入れていると、その人が、言った。

あの。

健太くんの、お母さんですよね。

わたしの手が、止まった。

第四章 校門のベンチ

その人は、傘のしずくを、床に落としながら、続けた。

余計なことかもしれません。

でも、お話ししておいたほうが、いいと思って。

わたしは、うなずいた。

健太くんは、毎朝、学校に来ています。

わたしは、息が、できなくなった。

校舎には、入りません。

校門のところまで、来て、そこで、立ち止まる。

それから、校庭の隅の、ベンチに、座ります。

雨の日は、わたしの小屋の、軒下です。

弁当を、持って。

登校する子どもたちの声が、聞こえる朝も、あります。

その中に、入っていかないで、ただ、座っています。

時間は、決まっています。

朝の、八時すぎ。

その人は、わたしの顔を、見なかった。

コロッケの袋を、見ていた。

弁当は、全部、食べます。

食べ終わると、わたしの小屋の、水道で、箱を洗います。

ふたも、パッキンも、外して、ていねいに。

わたしが、いいよと言っても、やめない。

洗い終わって、箱を、かばんに入れて、帰っていきます。

一度も、何も、言いません。

でも、わたしは、思うんです。

あれは、お母さんに、返事をしているんじゃないかと。

口では、言えないから。

箱を、洗って、返すことで。

わたしは、立ったまま、動けなかった。

その人は、小さく頭を下げて、コロッケの袋を、受け取った。

それから、雨の中へ、出ていった。

第五章 箱の洗い方

その夜、わたしは、流しの前に、立った。

水切りに、弁当箱が、伏せてあった。

わたしは、ふたを、手に取った。

溝に、指をすべらせた。

ぬめりが、どこにも、なかった。

パッキンの内側にも、水の跡が、きちんと、残っていた。

あの子の指が、この溝を、何度も、なぞったのだ。

雨の朝に、軒下で、水道の水に、手をぬらして。

わたしは、あの子が、家にこもっているのだと思っていた。

何もしていないのだと、思っていた。

わたしが、あの子を、だめにしたのだと、思っていた。

あの冬の夜から、毎日、自分を責めながら、弁当を詰めてきた。

責める手を、止められないまま、卵を焼いて、唐揚げを、二つ入れた。

でも、そうではなかった。

わたしが責めながら詰めたその弁当が、あの子を、毎朝、校門まで歩かせていた。

責めて、それでも作った弁当が、あの子の、八時の道を、つくっていた。

わたしが、いちばんだめだと思っていた朝が、あの子の、一日の入り口だった。

わたしは、水道を止めた。

それから、夜中の台所で、少しだけ、声を出さずに、笑った。

エピローグ

次の朝も、四時四十分に、起きた。

台所の電気を、つけた。

卵を焼いて、ほうれん草を、ゆでた。

唐揚げを、二つ、入れた。

弁当箱の横に、小さな包みを、ひとつ置いた。

コロッケが、二つ入っている。

わたしは、廊下に出て、あの子の部屋の戸の前に、立った。

暗い、戸だった。

息を、一度、吸った。

健太。

小さな声で、呼んだ。

返事は、なかった。

それでも、続けた。

おべんとうの、横の、コロッケ、用務員さんに、渡して。

戸の向こうで、ベッドの、きしむ音がした。

わたしは、それ以上、何も言わずに、玄関で、長靴をはいた。

雨の音が、今日も、屋根をたたいていた。

ソウルミッション358

あなたの魂のテーマに気づく場所