0_かゆの湯気
母が食べなくなったのは自分のかゆのせいだと責め続けた娘に、訪問看護師が、母は粥ではなく廊下の足音を迎えて口を開けていたと差し出す。責めながら毎朝歩いた足音が母の待つものだった。

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第一章 三週間
母が、ものを食べなくなったのは、十月の終わりだった。
わたしは、五十四になる。
信用金庫の窓口で、週に三日だけ、働いている。
残りの四日は、福井の古い家で、母と暮らしている。
父は、二十年前に、亡くなった。
きょうだいは、いない。
だから、母のことは、わたしが、見ることになった。
誰かに頼まれたわけではなく、ほかに、見る、ひとがいなかった。
母は、八十四だった。
三年前に、転んで、腰の骨を折った。
それから、ほとんど、寝たきりになった。
朝は、六時に起きる。
十一月の福井は、朝が、暗い。
雪おこしの雷が、遠くで、鳴ることもある。
台所の床が、足の裏に、冷たい。
まず、かゆを炊く。
米を、多めの水で、一時間ほど、とろ火にかける。
母が元気だったころ、うちの朝は、いつも、かゆだった。
わたしは、それを食べて、育った。
だから、わたしが炊けば、母は食べると思っていた。
最初の二年は、そのとおりだった。
十月の終わりから、変わった。
かゆを、匙ですくって、口もとに持っていく。
母は、口を、開けなくなった。
一口も、食べない朝が、続いた。
今日で、三週間になる。
第二章 漆の匙
母の匙は、漆の匙だった。
赤黒い色で、柄の先が、少しだけ、細くなっている。
母が嫁入りのときに、持ってきたものだと聞いた。
六十年、使っている。
わたしが小さいころ、熱を出すと、母は、この匙で、かゆを食べさせてくれた。
ふうふうと吹いて、唇に当てて、熱くないか、確かめてから、口に入れてくれた。
いまは、わたしが、それを、している。
吹いて、唇に当てて、確かめて。
母は、わたしに、そうしてくれた。
同じ手つきを、わたしは、母から、習ったのだと思う。
でも、口は、開かない。
匙の先を、母の唇に、そっと触れさせる。
母は、目を閉じたまま、顔を、少しだけ、そむける。
わたしは、匙をひっこめる。
かゆは、湯気を立てている。
その湯気が、だんだん細くなって、消えていく。
わたしは、それを、毎朝、見ている。
見ているうちに、思う。
わたしの炊き方が、悪くなったのだ、と。
水の量。火の加減。塩のひとつまみ。
三年のあいだに、手が、慣れすぎて、雑になったのかもしれない。
梅干しを、ほぐして入れてみた。
昆布の出汁で、炊いてみた。
母の好きだった塩加減を、思い出して、やり直した。
どれも、母は、口に入れなかった。
それとも、もっと前の、何かだ。
第三章 去年の夏
思い当たることが、ひとつある。
去年の夏の、昼だった。
その日は、職場で、ひどく疲れていた。
帰ってきて、すぐに、母のおむつを替えた。
そのあと、昼のかゆを、持っていった。
母は、その日も、少し食べて、やめた。
わたしは、言った。
もう、自分で食べてよ。
大きな声だった。
母は、わたしを見た。
何も言わなかった。
その目を、わたしは、いまでも、覚えている。
怒った目ではなかった。
ただ、すまない、という目だった。
それから、わたしは、一度も、あの声を出していない。
母は、次の日の朝も、かゆを食べた。
何ごとも、なかったように。
それが、かえって、胸に残った。
でも、あの日のことが、わたしの中で、ずっと、鳴っている。
あの日の母の目が、いま、わたしの匙を、よけている。
そう思うと、息が、うまく、できなかった。
夜、母の部屋の前で、小さな声で言った。
ごめんね、お母さん。
返事は、なかった。
それでも、朝には、また、かゆを炊いた。
やめる、という考えは、なぜか、一度も、浮かばなかった。
第四章 火曜日の訪問
火曜日の朝は、訪問看護師の、村井さんが来る。
三十すぎの、背の高い男の人で、声が低くて、落ち着いている。
三年前、退院のときに、最初に家に来てくれた人でもある。
それ以来、毎週火曜日、同じ時間に、玄関のチャイムを鳴らす。
母の血圧を測って、脈を診て、手足を、ゆっくり動かしてくれる。
十一月の、半ばをすぎた火曜日だった。
村井さんは、母の枕もとに、しばらく、座っていた。
わたしは、台所で、洗いものをしていた。
戻ると、村井さんが、言った。
娘さん、少し、いいですか。
わたしは、手をふいて、廊下に出た。
どうなるのか、聞くのが、こわかった。
村井さんは、少し、ためらってから、言った。
お母さんは、もう、食べる力が、あまり、残っていません。
それは、お伝えしないといけません。
わたしは、うなずいた。
それから、自分の声が、勝手に、言っていた。
わたしのかゆが、悪かったんです。
村井さんは、わたしを見た。
それから、静かに、首を横に振った。
ひとつ、お話ししても、いいですか。
わたしは、また、うなずいた。
三週間、毎週、ここに来て、思っていたんです。
お母さんは、かゆを、ことわっています。
でも、あなたの足音には、ことわっていません。
わたしは、意味が、わからなかった。
村井さんは、続けた。
わたしが来ると、お母さんは、目を閉じています。
でも、あなたが、台所から、廊下を歩いてくると、まぶたが、動くんです。
足音が、部屋の前で止まると、口が、ほんの少し、開く。
かゆが、口に近づく前から、です。
かゆを、食べようとしているのでは、ないと思います。
あなたが来たことを、迎えているんです。
一日に、何回も。
第五章 足音
その夜、わたしは、母の部屋の前で、立ち止まった。
廊下の板は、古くて、一歩ごとに、きしむ。
わたしは、この音を、今まで、気にしたことがなかった。
すり足で歩く、わたしの足音。
台所から、母の部屋まで、十二歩。
その十二歩を、三年、毎日、何十回も、往復してきた。
母は、その音を、一日に何度も、聞いていたのだ。
洗濯物を取り込む音。
味噌汁の湯気が立つ音。
玄関の鍵を回す音。
その合間の、すり足の、十二歩。
目を閉じたまま、数えるように。
わたしは、母が、かゆを食べなくなったことを、自分のせいだと思ってきた。
去年の夏の、あの声の、せいだと思ってきた。
あの日から、毎日、自分を責めながら、匙を持って、歩いてきた。
責めるのは、つらかった。
でも、責めながらも、わたしは、毎朝、この廊下を歩いて、戸を開けてきた。
でも、そうではなかった。
自分を責める毎日は、毎朝、母の枕もとに立ち続けた毎日でもあった。
責めて、責めて、それでも歩いた、その足音が、母には、迎えるものだった。
わたしが、いちばん、だめだと思っていた日々を、母は、いちばん、待っていた。
わたしは、部屋の戸を、静かに開けた。
母は、目を閉じていた。
でも、口もとが、ほんの少し、動いた。
開けたのは、かゆのためではなかった。
わたしの、足音のためだった。
エピローグ
母は、それから五日後の、朝に、息を引き取った。
苦しまなかった、と村井さんが、言ってくれた。
葬式がすんで、十二月の、最初の朝だった。
わたしは、いつもの時間に、起きた。
台所に立って、米を、多めの水で、とろ火にかけた。
一時間たって、かゆは、湯気を立てた。
漆の匙で、ひとすくい、すくった。
仏壇の前まで、持っていって、小さな器に、盛った。
湯気が、まっすぐ、上がった。
わたしは、手を合わせた。
それから、台所へ戻る廊下を、ゆっくり、歩いた。
すり足をやめて、一歩ずつ、足の裏を、板に置いた。
きしむ音を、母に、聞こえるように。
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