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手が、止まる

触れないこと

手が、止まる

朗読で聴く

第一章 荷台

河合は六十七になった。

息子の拓也は三十四で、隣の県にいる。

仲は悪くない。

年に二度は帰ってくるし、電話も月に一度は来る。

喧嘩をしたことは、拓也が高校のときに一度あるだけだ。

その一度も、三日で終わっている。

何で揉めたのかは、二人とも覚えていない。

覚えていないくらいのことで、三日黙っていた。

最後に触れたのがいつかは、はっきりしている。

二十四年前の夏だった。

拓也は十歳で、自転車に乗る練習をしていた。

河合は荷台を持って、後ろから押していた。

家の前の道を、何往復もした。

その日の四本目で、河合は手を離した。

拓也は気づかずに進んだ。

十メートルほど行って、振り返った。

離してた、と言った。

離してた、と河合は答えた。

二人とも笑った。

夕方で、道の端に自分たちの影が長く伸びていた。

拓也はそのまま道の先まで行って、自分で止まって、戻ってきた。

乗れるようになった日だった。

その晩、妻に、乗れたぞ、と言った。

妻は、あら、と言って、写真を撮らなかったことを少し悔しがった。

撮っておけばよかったとは、河合も思った。

いま思うのは、別のことだ。

あの日、手を離したのは正しかった。

離さなければ乗れるようにならない。

正しかったのに、そのあと一度も戻していない。

それが最後だった。

最後だと分かったのは、ずっとあとのことだ。

第二章 用事

触らなくなった理由は、思い出せる範囲では、何も無い。

中学に入ると背が伸びて、頭に手を置く高さではなくなった。

風呂に一緒に入ることも、いつのまにか無くなった。

いつやめたのかは、二人とも覚えていないと思う。

高校で寮に入り、大学で県を出て、そのまま就職した。

帰ってくるのは盆と正月だけになった。

玄関で、ただいま、と言う。

おかえり、と河合が言う。

それで済む。

握手をする家ではない。

肩を叩く家でもない。

もともとそういう家だったのか、途中からそうなったのかが、いま思うと分からない。

河合自身は、父に触られた記憶がほとんど無い。

叩かれた記憶も無いし、抱かれた記憶も無い。

無いことを寂しいと思ったことは、若いころは一度も無かった。

父は職人で、手を怪我することを何より嫌がった。

手は仕事の道具だと言っていた。

道具は人に触るためのものではない、とまでは言わなかったが、

そういう扱い方をしているのは、子どもにも分かった。

河合は職人にはならなかった。

ならなかったのに、手の使い方だけ同じになった。

妻に聞いたことはない。

聞けば、いつからかを覚えているかもしれない。

聞かないでいる。

聞かない理由は、聞いても仕方がないからだ。

いつからかが分かっても、明日から何かが変わるわけではない。

変わらないことを確かめるために聞くのは、こちらが楽になるためでしかない。

第三章 止まる

拓也が帰ってくると、玄関に荷物が置かれる。

河合は、それを持とうとする。

手が出る。

いい、と拓也が言う。

重いから、とか、自分で持つから、とか、そういう短い言い方だ。

悪気はまったく無い。

むしろ気を遣っている。

その一言で、河合の手が止まる。

空中で止まる。

止まった手を、そのままポケットに入れる。

入れると、出した理由が消える。

最初はぎこちなかった。

二十四年やって、いまはなめらかになった。

出して、止まって、入れる。

この三つの動きだけが、二十四年で上手くなった。

ほかの動きは、どれも下手になっている。

うまくなったことに気づいたのは、去年だった。

気づいたきっかけは、拓也の連れ合いだった。

初めて家に来たとき、その人は玄関で荷物を置き、河合が手を出すと、

ありがとうございます、と言って渡した。

持った。

渡されたことより、自分の手が止まらなかったことに驚いた。

他人の荷物は持てる。

持てるのに、息子のものだと止まる。

止まるのは相手が拒むからだと、長いこと思っていた。

そうではなかった。

拒まれる前に、こちらが止めている。

いいと言われなかった日のことを、思い出そうとしてみた。

思い出せなかった。

第四章 写真

去年の秋に、拓也が結婚した。

式のあと、家族の写真を撮った。

カメラマンが、お父さん、肩に手を置いてください、と言った。

河合は手を上げた。

肩の少し上まで来て、そこで止まった。

置けなかった。

置くという動きが、腕の中に無かった。

肩はそこにあった。

距離は五センチだった。

五センチが、腕の長さより遠かった。

カメラマンはもう一度、置いてくださいね、と言った。

河合は手をもう少し近づけた。

触れなかった。

三度目に、カメラマンは、はい、そのままで、と言った。

あきらめたのだと分かった。

あきらめさせたのは、こちらだった。

写真は一か月後に届いた。

四十枚ほどあった。

一枚だけ、河合の手が息子の肩の上に浮いている。

五センチほど浮いている。

妻はその写真を見て、何も言わなかった。

拓也も何も言わなかった。

誰も言わないので、河合も言わなかった。

その写真は、いま仏間の棚に立ててある。

妻が並べたもので、河合が動かしたことはない。

通るたびに目に入る。

浮いた手が、五センチのまま止まっている。

第五章 握り

物置に、あの自転車がまだある。

捨てる話が出たことは何度かあるが、そのつど別の話になった。

サドルは十歳の高さのままだ。

春に、物置を片づけていて、久しぶりに近くで見た。

握りのゴムが、へこんでいる。

左右とも、掌の形にへこんでいる。

指のところが四つ、はっきり分かる。

二十四年たっても戻っていない。

ゴムは同じゴムのまま、そこだけ押されて平らになっている。

拓也の手の跡だった。

十歳の手の大きさだった。

河合は自分の手を近づけてみた。

大きすぎて、合わなかった。

合わせようとしたわけではない。

勝手に手が近づいて、勝手に止まった。

物置でも同じことをしていた。

合うはずがない。

荷台のほうも見た。

二か所、塗装が薄くなっている。

押していたところだった。

自分の跡も、残っていた。

残っているのに、二十四年、使っていない。

跡というのは、使ったところに残るものだ。

使わなくなっても、跡のほうは消えない。

消えないものを持ったまま、二十四年たった。

物置を出るとき、握りをもう一度見た。

十歳の手のへこみは、そのままだった。

拓也の手は、いまはもっと大きい。

大きくなったほうの手には、この跡は付いていない。

エピローグ

正月に、拓也が帰ってきた。

玄関に荷物を置いた。

河合は手を出した。

いい、と拓也が言った。

河合は手を出したままにした。

引っこめなかった。

三秒ほど、そのままだった。

長い三秒だった。

拓也は、じゃあ、と言って、荷物を渡した。

持つと、思っていたより重かった。

指が少し触れた。

どちらも何も言わなかった。

河合はそれを持って、廊下を歩いた。

次にいつ触れるかは、分からない。

分からないが、手の出し方は、まだ残っていた。

二十四年、使わずに残っていた。

残っているものは、まだ使える。

ソウルミッション358

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