置いてから、渡す
触れないこと

朗読で聴く
第一章 いびき
戸倉は六十三になった。
妻の澄子とは三十八年になる。
喧嘩をしたことは、若いころに二度か三度ある。
この二十年は、一度もない。
二十年前の春に、息子が家を出た。
部屋がひとつ空いた。
その月のうちに、寝室を分けた。
理由は戸倉のいびきだった。
澄子が、眠れない、と言った。
言い方は責める言い方ではなかった。
困っている人の言い方だった。
戸倉は、そのほうがいい、と答えた。
答えたのは一秒もかからなかった。
自分でも早いと思ったが、言い直さなかった。
早かったのは、前から少し思っていたからだった。
いびきは本当のことで、澄子は三年ほど我慢していた。
我慢していたのを知っていて、こちらからは何も言わなかった。
言えば、部屋を分ける話になる。
分ける話を、こちらから出したくはなかった。
出したくなかったのに、出されたときには、待っていたような速さで答えた。
澄子は、悪いね、と言った。
悪いことは何もない。そう答えるべきだったが、うん、とだけ言った。
その晩から、寝る場所が別になった。
寝る場所が別になると、朝も別になる。
起きる時間が違うので、顔を合わせるのは朝の茶のときだけになった。
それでも、暮らしは何も困らなかった。
食事は一緒にとるし、旅行にも年に一度は行く。
人が見れば、仲のいい夫婦に見えると思う。
実際、仲は悪くない。
悪くないから、直すきっかけも無い。
困っていることは、人に言えば直せる。
困っていないことは、言う場面が来ない。
触れないことにしよう、と決めた日は無い。
決めなかったのに、触れる場面のほうが、ひとつずつ無くなっていった。
布団を並べて敷くことが無くなった。
寝るときと起きるときの、おはようとおやすみが無くなった。
夜中に寝返りで当たることも無くなった。
当たっていたことを、無くなってから思い出した。
第二章 置く
戸倉は毎朝、澄子より先に起きる。
台所で湯を沸かし、茶を淹れる。
湯呑みを二つ、机に置く。
並べて置くが、離して置く。
置いて、手を離して、台所に戻る。
しばらくして澄子が起きてきて、自分のほうを取る。
取るところは見ていない。
台所にいるので、見えない。
いつからか、そういう順番になった。
澄子が来るまで台所にいるのは、待っているからではない。
待っているように見えるのが、こちらに落ち着かないからだった。
物を渡すときも、同じだった。
醤油も、鋏も、通帳も、机に置く。
置いて、こちらが離れてから、向こうが取る。
手から手へは渡さない。
いつからそうなったのかは覚えていない。
覚えていないくらい前から、そうしている。
二十年で、これが体になった。
体になったものは、意識では戻せない。
戻すには、また二十年ぶんの何かが要る。
考えて置いているのではない。
持ったまま渡そうとすると、途中で手が机のほうへ下りる。
一度だけ、旅行先で切符を手渡したことがある。
置く場所が無かったからだった。
指が触れた。
澄子は何も言わなかったし、こちらも言わなかった。
その日のうちに忘れたつもりでいたが、十年たっても覚えている。
覚えているということは、忘れていないということだ。
第三章 半歩
廊下ですれ違うときは、どちらかがよける。
だいたい戸倉のほうがよける。
よけるのが、年々早くなっている。
相手が来るのが見えた時点で、もう体が半分横を向いている。
ぶつかったことは、二十年で一度もない。
狭い家なので、ぶつからないほうが難しい。
難しいことを、二十年、二人でやってきたことになる。
一度もない、というのは、あとから数えて分かったことだった。
去年、テレビで夫婦の番組をやっていた。
手をつないで歩く老夫婦が出ていた。
澄子が、いいわねえ、と言った。
戸倉は、そうだな、と言った。
それだけで、話は次に行った。
いいわねえ、が、してほしいという意味だったのかどうかは分からない。
聞けば分かる。
聞かなかった。
聞かない理由は、はっきりしている。
聞いて、してほしいという意味だったら、明日から何かを始めなければならない。
二十年やらなかったことを、六十三から始める。
始め方が分からない。
分からないことを人に聞くのは、若いうちだと思っていた。
思っていただけで、誰かにそう言われたわけではない。
第四章 階段
去年の冬、澄子が階段で足を滑らせた。
三段目だった。
戸倉は下にいて、真正面から見ていた。
距離は一歩半。
手が出なかった。
出さなかったのではない。
出す、という動きが、体のどこにも用意されていなかった。
澄子は手すりを掴んで、途中で止まった。
自分の力で止まった。
音は、思っていたより小さかった。
滑ってから止まるまでは、たぶん一秒も無かった。
一秒あれば手は届く距離だった。
あぶなかった、と澄子が言った。
うん、と戸倉は言った。
それだけだった。
澄子は下りてきて、台所へ行った。
戸倉はしばらく、階段の下に立っていた。
自分の手を見た。
二十年、この手で人に触れていない。
触れていないものは、いざというときに動かない。
そのことを、そのとき初めて知った。
その晩、寝る前に、自分の手のひらを何度か開いて閉じた。
動く。
動くのに、あのときは動かなかった。
力の問題ではないのだと分かった。
使わなかった動きは、体から抜けていく。
抜けたことは、抜けたあとにしか分からない。
第五章 輪
春に、机を拭いていて気がついた。
机の面に、輪の跡がついている。
湯呑みを置きつづけた跡だった。
二つある。
同じ濃さで、同じ大きさで、二つ並んでいる。
指でなぞってみたが、へこんでいるわけではない。
削れているのでもない。
同じ木のまま、そこだけ色が抜けている。
拭いても取れない。
取れないものだと分かってから、その二つをよく見るようになった。
二十年、同じところに置いてきた。
自分の側の輪も、澄子の側の輪も、はっきりしている。
はっきりしているのに、重なっていない。
間は、握りこぶし二つほど空いている。
二十年、その幅は変わっていない。
変えようとしたこともない。
変えようと思ったこともない、と書くと嘘になる。思ったことはある。
その間には、何も跡がついていない。
跡がついていないところは、何も置かれなかったところだ。
二十年ぶん、そこには何も置かれていない。
置かなかったのは、こちらでもあるし、向こうでもある。
どちらが先だったかは、もう分からない。
エピローグ
次の朝、戸倉は湯呑みを二つ置いた。
澄子のほうを、いつもより少し近くに置いた。
二センチほどだった。
置いてから、台所に戻った。
しばらくして、取っていく音がした。
何も言われなかった。
次の朝も、同じところに置いた。
その次の朝も置いた。
輪の跡は、まだ二つのままだ。
跡が動くには、たぶん二十年かかる。
戸倉は六十三で、二十年は無いかもしれない。
それでも、置く場所は毎朝、こちらで決められる。
決められることが、ひとつ残っていた。
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