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書き出しで、止まる

待たせていること

書き出しで、止まる

朗読で聴く

第一章 三年前の手紙

芳賀は五十五になった。

三年前の春に、手紙が来た。

差出人は神谷という。

二十代のころ、同じ部署にいた人だった。

芳賀が入って三年目に、神谷は隣の席にいた。

十ほど上で、教わったというほど教わってはいない。

ただ、芳賀が最初に大きな失敗をした日、神谷は何も言わずに残って、一緒に数え直した。

その晩のことは覚えている。

伝票の束を三度数え直して、三度とも合わなかった。

九時を過ぎたころ、神谷が自分の分を終えて、こちらの机の横に椅子を持ってきた。

大丈夫かとも、どうしたとも聞かなかった。

束を半分に分けて、黙って数えはじめた。

十一時に合った。

合ったときも神谷は何も言わず、椅子を元の場所に戻して帰った。

神谷はその二年後に会社を辞め、それきり会っていない。

二十五年、一度も連絡を取っていなかった。

封筒は厚かった。

中に便箋が八枚入っていた。

両面ではなく、片面だけに書いてある。

字は大きくも小さくもなく、行が最後まで真っすぐだった。

書いてあったのは、いまどこに住んでいるかということと、あのころのことだった。

誰が何を言ったか、どの現場でどうだったか、芳賀が忘れていたことまで書いてあった。

最後の一枚に、一行だけあった。

芳賀さんのことを、ときどき思い出します。

それだけだった。

用件は、何もなかった。

なぜ二十五年たって書いてきたのかは、どこにも書いていなかった。

封筒の消印は隣の県だった。

便箋の八枚めの下のほうに少し余白があって、そこに何も足していないのが、芳賀には分かった。

足せるはずのところを、足さずに終えている。

第二章 便箋

読んだ日の夜、返事を書こうと思った。

思っただけではなく、次の日に文具屋へ行った。

便箋を買った。

神谷のものと似たものがいいと思って、罫の幅まで見て選んだ。

店の人に、似た罫のものはどれかと聞いた。

聞いておいて、封筒は買わなかった。

出す段になってから買えばいいと思っていた。

三年、その段が来ていない。

その晩、机に出して、ペンを持った。

書き出しを書いた。

お手紙、ありがとうございました。

そこで止まった。

次に何を書くのかが、出てこなかった。

十五分ほど座って、その一枚を丸めて、机の下の屑籠に入れた。

次の晩も、机に出した。

同じ書き出しを書いた。

同じところで止まった。

三日目には、丸める前に少し考えるようになった。

考えても同じだった。

一週間たったころ、屑籠がいっぱいになった。

中身を出すとき、丸めた紙をひとつだけ広げてみた。

自分の字で、書き出しが一行あった。

その下は白かった。

広げたのはその一度きりで、それからは見ずに捨てている。

第三章 書き出し

三年、同じことをしている。

毎晩ではない日もある。出張の晩と、熱を出した何日かは書いていない。

それを除けば、ほとんど毎晩、机に便箋を出している。

書くのは書き出しだけで、そこから先へ一度も進んでいない。

仕事の手紙なら書ける。

二十年、詫び状も礼状も断り状も書いてきた。

用件のある手紙は、用件が先に立つので、書き出しは通り道でしかない。

神谷の手紙には用件が無かった。

用件の無い手紙に返す言葉を、芳賀は持っていなかった。

持っていないと分かってからも、毎晩ペンを持った。

便箋は四冊めに入っている。

使い切った箱は捨てずに、机の端に積んである。

箱を見れば、何日ぶんかは分かる。

分かるだけで、何も変わらない。

妻に一度、聞かれたことがある。

毎晩何を書いているのか、と。

手紙、と答えた。

誰に、とは聞かれなかった。

聞かれていたら答えられなかったので、聞かれなかったことに助けられている。

助けられていると分かっていて、こちらからは言っていない。

第四章 暑中見舞い

手紙が来た年の七月に、葉書が来た。

神谷からだった。

暑中見舞いだった。

次の年の七月にも来た。

その次の年にも来た。

三年とも、切手の下に消印があって、七月十日前後だった。

毎年、同じころに書いて、同じころに出しているということだった。

三年とも七月の半ばに届いた。

催促は書いていない。

返事はまだですか、とも、この前の手紙は届きましたか、とも書いていない。

芳賀は毎年、その葉書を封筒の入った引き出しに一緒に入れた。

二年目の葉書が来たとき、少しだけ息が詰まった。

三年目の葉書が来たとき、はっきり分かった。

葉書が来るということは、待っているということだった。

催促をしないという形で、待たれている。

催促されたほうが楽だった、とは思わない。

催促されていたら、たぶん一年で書いていた。

書けないまま三年もったのは、催促が無かったからだ。

催促の来ないものは、いつ返しても遅れたことにならない。

遅れたことにならないものは、いつまでも今日でなくていい。

三年ぶんの今日でなくていいが、そのまま積み上がっている。

第五章 来なかった

今年、七月が過ぎても葉書は来なかった。

八月になっても来なかった。

九月に入って、来ないのだと分かった。

七月のあいだは、遅れているのだろうと思っていた。

八月の初めから、郵便受けを一日に二度見るようになった。

二度見ていることに気づいて、やめた。

やめても、朝に開けるときの手つきが変わっていた。

やめたのだと思った。

三年待って、やめたのだと。

そう思ったあとで、もうひとつのほうを考えた。

神谷は十ほど上だから、六十五を過ぎている。

どちらなのかは、確かめれば分かる。

共通の知り合いは二人いるし、住所も封筒に書いてある。

電話も、手紙も、行くことすらできる。

確かめていない。

三年、返事を書かなかったのと、同じ手つきで確かめていない。

確かめて、やめたのだと分かるのはこわくない。

やめたのなら、こちらが遅すぎただけの話だ。

こわいのは、もう一つのほうだった。

もう一つのほうだと分かってしまうと、三年ぶんの毎晩が、全部そこへ向かって並んでしまう。

九月の終わりに、引き出しを開けた。

葉書が三枚あった。

並べた。

三枚とも、印刷された文が入っていた。

暑さの折、体を大切に、というような文だった。

手で書いてあるのは、名前だけだった。

三年とも、同じだった。

神谷は三年、書き出しだけを送ってきていた。

それで、待っていることは伝わっていた。

こちらは、その書き出しを三年、毎晩捨てていた。

エピローグ

その晩、芳賀は便箋を出した。

書き出しを書いた。

お手紙、ありがとうございました。

三年、同じところで止まってきた書き出しだった。

止まった。

丸めなかった。

その下に、日付と名前を書いた。

それだけで、一枚が終わった。

封をした。

宛名を書いた。住所は封筒から写した。

次の朝、ポストの前に立った。

三年、この一枚では足りないと思って捨ててきた。

足りないという長さを決めたのは、神谷ではない。

入れた。

音がして、それで終わった。

返事が来るかどうかは、分からない。

届く相手がいるかどうかも、まだ分からない。

分からないまま出すのが、出すということだった。

帰り道で、机の端の箱を捨てようと思った。

思って、やめた。

あの四冊は、返事を書かなかった三年でもあるし、毎晩机に出した三年でもある。

どちらでもあるものを、片方の名前で捨てるわけにはいかなかった。

ソウルミッション358

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