返していない
待たせていること

朗読で聴く
第一章 急ぎでないもの
三沢は四十二になった。
総務にいる。二十三で入って、十九年、同じ部署にいる。
人からものを頼まれる仕事だった。
備品の発注、社用車の手配、鍵の管理、名刺の追加、社員証の再発行。
朝、席に着くと、もう机の上に紙が置いてある。
誰が置いたか書いていないものもある。
一日に十も二十も頼まれる。
頼まれたものには、急ぎのものと、急ぎでないものがある。
急ぎのものは、その場で返す。
電話が鳴れば出るのと同じで、考えるより先に手が動く。
急ぎのものは、たいてい向こうから人が来る。
来た人の顔を見れば、急ぎかどうかはわかる。
急ぎでないものは、後にする。
悪気はない。
忘れてもいない。
その日のうちに返せるものを、翌日に回す。
三沢のしていたことは、それだけだった。
誰にも咎められたことがない。
仕事が遅いと言われたこともない。
むしろ、頼みやすい人だと言われてきた。
頼みやすい、というのは、断らないという意味だった。
三沢は断らない。
頼まれたものは、全部受ける。
受けたものを、いつ返すかは言わない。
言わないまま受けるのが、三沢のやり方だった。
受けた瞬間は、相手も三沢も、それで話が済んだ顔をする。
第二章 下の段
翌日になると、また新しく頼まれる。
新しく頼まれたもののうち、急ぎのものを先に返す。
昨日から回してきたものは、そのまま残る。
残ったものは、また翌日に回る。
三沢の机の右手に、書類を入れるトレーがある。
二段あって、上の段が今日のもの、下の段がそれ以外。
自分で決めた分け方だった。
入った当初は、下の段には何も入っていなかった。
下の段は、いつからか、いつも同じ厚さに見えるようになった。
減らないから同じに見えるのだと思っていた。
実際には、減らないのではなかった。
入れ替わっていなかった。
上の三、四枚だけが動いていて、その下は動いていない。
一番下の紙は、何年も同じ場所にある。
紙は文句を言わない。
三沢はいつからか、下の段を見なくなった。
見なくても、仕事は回っていた。
隣の席の若い社員が、一度だけ、その段のことを聞いた。
それ、何ですか、と言った。
急ぎでないやつ、と三沢は答えた。
若い社員は、そうですか、と言って自分の画面に戻った。
それきり、誰もその段のことを聞かなかった。
聞かれなければ、思い出すことはない。
下の段は、三沢の机の上にありながら、三沢の目に入らない場所になった。
毎日そこにあって、毎日見えていなかった。
第三章 催促
催促が来ることがある。
まだですか、と言われる。
言われたものは、その日のうちに返す。
返すと、相手は礼を言って戻っていく。
だから三沢は、催促を悪いことだと思っていなかった。
催促は、締切のようなものだった。
来たら返す。来なければ、まだ要らないということだ。
そう考えると、仕事は楽になった。
催促の来るものだけを見ていれば、間違いは起きない。
実際、間違いは起きなかった。
営業に、二日に一度は顔を出す若い男がいた。
彼の頼みは、いつもその週のうちに片づいた。
三沢は彼を、きちんとした人だと思っていた。
その反対の人もいる。
頼んだきり、二度と何も言わない人。
三沢はそういう人を、急いでいない人だと思っていた。
急いでいないから言わないのだ、と。
言わない理由がほかにあるとは、考えたことがなかった。
入ったばかりの人ほど、言わなかった。
急ぐ人は急ぐと言い、急がない人は何も言わない。
言わない人のものを後にするのは、順番として正しい。
正しいと思っていた。
催促の来ないものだけが、下の段に溜まっていった。
第四章 石渡
秋に、席替えがあった。
フロアの島の向きを変えるので、机の中のものを全部出すことになった。
下の段の紙を、はじめて全部出した。
思っていたより厚かった。
両手で持って、机の上に置いた。
一枚ずつ見た。
ほとんどは、もう意味のないものだった。
異動した人の名刺の追加。使わなくなった会議室の備品。返された鍵の記録。
差出人の名前を見ても、顔の出てこないものがいくつもあった。
顔の出てこない紙のほうが、下にあった。
下にあるほど、古い。
古いほど、その人はもう社にいない。
その中に、石渡という名前の申請書があった。
制服のサイズを直してほしい、という紙だった。
肩のところが合わない、と欄の外に手で書き足してある。
字は丁寧だった。
日付は四年前の四月。
入社した年の春に出す紙だった。
三沢はその紙を覚えていなかった。
石渡という人も、すぐには顔が出てこなかった。
名簿を見た。
石渡は、三年前に辞めていた。
申請を出した年の、次の年だった。
在籍は、一年と少しだった。
第五章 返す
三沢はその紙を持って、しばらく座っていた。
返そうと思った。
返す先がなかった。
制服はもう会社にない。石渡もいない。
連絡先の欄は、寮の部屋番号で終わっていた。
その寮も、二年前に引き払っている。
催促は、一度も来ていなかった。
来なかったから、待たせていないと思っていた。
石渡は一年、待っていたことになる。
あるいは途中で、待つのをやめたのかもしれない。
やめたとしたら、それは何月のことだったのか。
どちらだったのかは、もう聞けない。
同じ課の年上の社員に、石渡のことを聞いた。
覚えていた。
背の高い子だったよ、と言った。
制服がぶかぶかでね、と言った。
三沢は、そうですか、とだけ答えた。
ぶかぶかのまま一年いたことを、その人も知っていた。
知っていて、誰も直さなかった。
直せるのは、三沢だけだった。
肩の合わない制服を、一年着ていたことだけがわかる。
三沢は下の段の紙を、日付の古い順に並べた。
並べると、名前が並んだ。
名前は、どれも人の名前だった。
紙は文句を言わない。
けれど、その紙を出したのは、人だった。
出したあとの時間を過ごしていたのも、人だった。
そのことを、十九年知らずにいた。
催促の来なかったものが、待たせていなかったものではない。
催促の来なかったものこそ、一番長く待たせていた。
エピローグ
席替えのあと、三沢はトレーを一段にした。
入ったものは、その日のうちに返す。
返せないものは、返せない理由を書いて返す。
いつになるかを書く。
わからなければ、わからないと書く。
理由でも、返せば返事になる。
その日のうちに返すと決めてみると、返せないものは思ったより少なかった。
石渡の申請書は捨てなかった。
引き出しの一番手前に入れてある。
朝、引き出しを開けるたびに見える。
見えるところに置いておかないと、また下の段を作るとわかっていた。
夕方、人が帰ったあとで、三沢は自分の机を見る。
椅子は引いたままにしてある。
誰かが座って、何かを頼みに来るかもしれない。
来たら、その日のうちに返す。
それだけのことだった。
それだけのことを、十九年しなかった。
催促は、今も来ない。
来ないうちに返すのが、返すということだった。
十九年かけて、そこまで来た。
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