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もう出ない

言い直すこと

もう出ない

朗読で聴く

第一章 三年

沢口は四十六になった。

十八で郷里を出た。東北の、電車が一時間に一本しか来ない町だ。

東京の専門学校に入って、二週目に、笑われた。

悪気のある笑い方ではなかった。面白がられただけだ。

それでも、その日から直しはじめた。

直すのに三年かかった。

やり方は自分で決めた。ラジオを一日中つけて、読み上げているところを声に出してまねた。

アナウンサーの言い方をそのままなぞる。意味は追わない。音だけを追う。

難しかったのは二つある。

「し」と「す」の区別。郷里ではどちらも同じ音になる。

もう一つは「い」と「え」。これは自分では違いが聞こえなかった。

聞こえないものを直すのに、二年かかった。

聞こえないと分かったのは、録音してからだ。

安いテープレコーダーを買って、自分の声を録った。

聞いて、ラジオと比べた。

違っていた。どこが違うかは、比べて初めて分かった。

それから毎晩、録っては聞き、録っては聞きした。

半年で「し」と「す」は直った。

「い」と「え」は、そのあと一年半かかった。

三年目の春に、専門学校の友人から、どこの出身だっけ、と聞かれた。

前に言ったはずだった。覚えていない顔をされた。

そのとき、直ったと思った。

直ったと思った日のことは、はっきり覚えている。

嬉しくはなかった。

三年かけたものが終わっただけで、何かが手に入った感じはしなかった。

第二章 二十八年

二十八年、出ていない。

会社では誰も出身を知らない。聞かれたことがない。

県名を言えば分かる人もいるだろうが、言う機会がない。

同僚に東北の出身者がいる。その人は訛りが残っている。

残っているのに、誰も何も言わない。

言わないのを見て、直さなくてもよかったのかもしれない、と思ったことはある。

思っただけで、いまさら戻す気にはならない。

戻し方も分からない。

訛りというのは、直すときは意識して直すのに、戻すときには意識が効かない。

真似はできる。だが真似だと自分で分かる。

分かるものは、もう自分の言葉ではない。

いまの言葉も、元は真似だった。

真似が二十八年続くと、それが自分の言葉になるらしい。

なったのなら、それでいいはずだ。

いいはずだ、としか言えないところが、たぶん答えだ。

いいと思っているなら、はずだ、とは言わない。

第三章 毎朝

毎朝、出勤前に鏡の前で一度だけ声を出す。

おはようございます、と言う。

それだけだ。十秒もかからない。

二十八年やっている。

最初の何年かは、出ないか確かめるためだった。

いまはもう出ない。出ないと分かっている。

分かっているのに、やめていない。

やめようと思ったことはある。何度もある。

やめた朝に何が起きるのかが分からないので、やめていない。

たぶん何も起きない。何も起きないと分かっていても、確かめる気にならない。

妻はこの習慣を知っている。

結婚したころに、何をしているのかと聞かれた。

声を出しているだけだ、と答えた。

それきり聞かれていない。

妻は東京の生まれで、訛りを直した経験がない。

説明しても、たぶん半分も伝わらない。

伝わらないと決めているのも、こちらの都合だと思う。

娘は中学生だ。東京の言葉しか知らない。

郷里に連れていくと、祖母の言うことが半分しか分からない。

分からない顔をするので、こちらが言い直してやる。

言い直しながら、自分がどちら側の人間なのかを考える。

考えて、答えが出たことはない。

娘は、祖母の言葉を面白がる。

面白がるのを、止めたことはない。

止めたら、二十八年前の自分の話をすることになる。

第四章 考えられない

直した代わりに、失ったものがある。

郷里の言葉で考えられなくなった。

帰省しても、頭の中は東京の言葉のままだ。

母の言うことは分かる。聞けば全部分かる。

分かるが、返す言葉が出てこない。

出そうと思えば出る。出すのに一拍かかる。

その一拍を、母は気づいていると思う。

気づいていて、何も言わない。

一度だけ、言われたことがある。

東京の言葉になったね、と言われた。

褒めてもいないし、責めてもいなかった。ただ、そう言った。

はい、と答えた。それ以外に答えようがなかった。

あのとき、何か言えばよかったのかもしれない。

直したんだ、とか、直さないと困ったんだ、とか。

言えば、母は、そうかい、と言っただろう。

そうかい、と言われたら、そこで終わってしまう。

終わらせたくなかったのだと思う。

終わらせないために、はい、とだけ言った。

二十八年、そういう返事ばかりしている。

母は八十四になった。

電話は月に一度かける。

電話では訛らない。相手の言葉に引っぱられることもない。

引っぱられないのは、こちらが強いからではない。

もう、引っぱられる部分が残っていないからだ。

残っていないのは、努力の結果だ。

努力の結果が「残っていない」というのは、変な言い方だと思う。

思うが、他に言いようがない。

何かを身につけたのではなく、何かを無くした。

無くしたものの名前は、たぶん無い。

第五章 二泊

帰省は二泊にしている。

三泊すると、少し戻るからだ。

戻るというほどではない。語尾が少し伸びる。それだけだ。

それだけなのに、戻したくない。

二十八年かけて出ないようにしたものを、三日で緩めたくない。

――出ないようにするのに三年かかった。戻るのは三日でいい。

その差が、いまだに納得できない。

納得できないまま、二泊で帰ってくる。

母には、仕事が、と言っている。

仕事は理由になる。二十八年、理由になりつづけている。

父が生きていたころは、三泊したこともある。

あのころはまだ、戻ることを気にしていなかった。

気にしはじめたのは、四十を過ぎてからだ。

年を取ると、口のほうが先に緩む。

三泊しなくなってから、十年になる。

十年、母は何も言わない。

言わないのは、こちらの事情が分かっているからだと思う。

分かっていて、二泊で帰らせている。

帰る朝、母は玄関まで出てくる。

気をつけて、と言う。それだけだ。

エピローグ

今朝も鏡の前で言った。

おはようございます。

出なかった。

出なかったことを確かめて、家を出た。

電車のホームで、白い線の内側に立って待った。

線の向こうは、誰も立たない場所だ。

二十八年、線のこちら側にいる。

こちら側にいることを、選んだのは自分だ。

選んだことは覚えている。選んだ日のことも覚えている。

教室の、窓際の席だった。

笑ったのは前の席の男で、名前も覚えている。

悪い人間ではなかった。いまでも悪く思っていない。

その男とは、卒業してから会っていない。

会っても、たぶん向こうは覚えていない。

覚えていないことのために、二十八年やっている。

それを損だとは思わない。

思わないことにしている。

そう決めたのも、たぶんあの日だ。

覚えているのに、その日の自分がどんな声で話していたかは、思い出せない。

あなたにも、直したものがありますか。

ソウルミッション358

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