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においがした

間に合わなかったこと

においがした

朗読で聴く

第一章 毎晩十五分

加瀬は五十七になった。

夫と二人で暮らしている。子どもは二人とも家を出た。

毎晩、寝る前に家じゅうの火の元を見て回る。

順番は決まっている。

台所のガスの元栓。コンロのつまみを三つとも。給湯器のスイッチ。

冬はストーブのコンセントを抜く。夏は扇風機を止める。

仏壇の線香の受け皿を見る。灰しかないと分かっていても見る。

最後に玄関の鍵をかけて、もう一度回す。

十五分かかる。

十九年、一日も欠かしていない。

旅行に出た日も、帰ってからやった。日付が変わっていてもやった。

夫は最初のころ、そこまでしなくていい、と言った。

言わなくなった。いつ言わなくなったかは覚えていない。

夫は、こちらが毎晩何かを見て回っていることを知っている。

何を見ているかも知っている。

なぜ十九年続いているのかは、たぶん知らない。

火事のあとだからだと思っているのだと思う。

それで合っている。合っているが、全部ではない。

全部を言っていないので、夫の分かり方が浅いとも言えない。

言っていないほうが悪い。

悪いと思っていて、それでも言わない。

言わない理由は、年々少しずつ変わる。

最初は、言えばあの夜のことを説明しなければいけないからだった。

いまは、十九年黙っていたことを説明しなければいけないからだ。

説明することが増えていくので、年々言いにくくなる。

第二章 十九年前の夜

十九年前の九月だった。夜中の一時ごろだと思う。

目が覚めた。理由はなかった。

においがした。

何かが焦げるような、かすかなにおいだった。

起きて、台所を見た。何もなかった。ガスも切ってあった。

廊下に出て、少し立っていた。

においは消えていた。消えていたのか、慣れたのかは分からない。

気のせいだ、と思った。

布団に戻って、目をつぶった。

三十分ほどして、音で起きた。

窓が明るかった。

外に出たときには、もう炎が屋根の上に出ていた。

外には何人か出ていた。みんな寝間着だった。

誰かが消防に電話をしていた。もうかけました、という声がした。

こちらは何もしなかった。立って見ていた。

水をかけようとした人がいて、止められていた。

止めたのは近所の男の人で、正しい判断だったと思う。

正しい判断をした人と、何もしなかった人が、そのときは同じに見えた。

朝になって、みんな家に帰った。

その日は仕事を休んだ。休む必要はなかったが、行く気にならなかった。

昼まで寝て、起きてから台所に立った。

立って、ガスの元栓を見た。切ってあった。

切ってあるのを見て、少し落ち着いた。

あれが最初の一回だったのかもしれない。

第三章 隣

隣は一人暮らしの老人だった。八十を過ぎていた。

挨拶はしていた。立ち話をしたことは、何度もない。

消防が来たときには、もう手のつけられない状態だった。

助からなかった。

あとで聞いた話では、寝たばこではなかったらしい。

仏壇のろうそくが倒れたのだろう、と言われた。

言われただけで、はっきりしたことは分からない。

誰も見ていないのだから、分かるはずがない。

分からないまま、十九年たった。

葬式には行った。

親戚が遠くから来ていた。息子さんだという人がいた。

その人に、隣に住んでいた者です、と言った。

お世話になりました、と言われた。

世話などしていない。

していません、と言えばよかったのかもしれない。言わなかった。

言わなかったことが、また一つ増えた。

あのころは、増えていることに気づいていなかった。

息子さんとは、それきり会っていない。

家の始末は業者がやった。更地になるまで三か月かかった。

三か月のあいだ、焦げた匂いが残っていた。

風向きによっては、台所まで来た。

来るたびに、あの夜のにおいを思い出した。

第四章 言わなかったこと

消防の人に聞かれた。

気づいたのはいつですか、と。

音で起きました、と答えた。

においのことは言わなかった。

言えば、三十分早く気づいていたことになる。

三十分あれば間に合ったのかどうかは、分からない。

分からないが、聞かれるとは思った。

どうしてすぐ見に行かなかったんですか、と。

聞かれたくなかった。

それだけの理由で、言わなかった。

十九年、誰にも言っていない。夫にも言っていない。

言わないでいるうちに、言うきっかけが無くなった。

いまさら言えば、十九年黙っていたことのほうが問題になる。

一度だけ、言いかけたことがある。

十年目の秋だ。夫と二人で夕飯を食べていて、隣の駐車場の話になった。

もう十年になるね、と夫が言った。

そうね、と答えた。

答えてから、あの夜ね、と言いかけた。

言いかけて、やめた。

夫は気づいていない。気づいていたら、何か言ったと思う。

あの人はそういう人だ。

言いかけてやめたことを、夫は覚えていないと思う。

こちらは覚えている。

覚えているので、あれからは駐車場の話が出ても、こちらから続けない。

続けると、また同じところに来る。

同じところに来て、また言わない。

それを繰り返すくらいなら、話題にしないほうがいい。

第五章 見回り

見回りを始めたのは、火事の一週間後だ。

始めたときは、怖いからだと思っていた。

いまはそう思っていない。

自分の家は一度も燃えていない。当たり前だ。火の元を切っているのだから。

切っていなくても、たぶん燃えない。ふつうの家は、そう簡単には燃えない。

それでも見て回る。

見て回っても、隣の家は戻らない。

――自分の家を見回っても、あの家は燃えたままだ。

分かっていて、毎晩十五分かける。

やめようと思ったことは、一度もない。

やめられるかどうかも、試したことがない。

試して、やめられたら困る。

やめられたら、この十九年が何だったのかという話になる。

やめられなかったら、それはそれで困る。

困るほうを両方避けて、毎晩回っている。

回っているあいだは、何も考えていない。

順番が決まっているので、考える必要がない。

考えなくていい十五分が、一日に一度ある。

それが助かっているのだと思う。

助かるために続けているのなら、これは自分のためだ。

自分のためのことを、十九年、償いのような顔をして続けている。

そう気づいたのは、去年だ。

気づいてからも、やめていない。

やめる気にもならない。

エピローグ

隣は更地になって、いまは月ぎめの駐車場になっている。

車が三台とまる。夜は二台のことが多い。

台所の窓から見える。

見えるので、毎晩見る。見てから、見回りに行く。

順番は十九年変わっていない。

変えようと思ったことはない。

変えたら、何かが終わる気がする。

終わって困るものが自分にあるのかどうかは、分からない。

分からないまま、今夜も回る。

台所から始めて、玄関で終わる。

終わったら、寝る。

寝る前に、もう一度だけ窓の外を見ることがある。

駐車場は暗い。何も起きていない。

何も起きていないのを確かめて、寝る。

あなたにも、間に合わなかったものがありますか。

ソウルミッション358

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