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同じ電車

間に合わなかったこと

同じ電車

朗読で聴く

第一章 六時四十二分

牧野は六十一になった。

毎年、九月の第二週の火曜日に、実家へ行く。

朝、六時四十二分の電車に乗る。乗り換えを二度して、三時間かかる。

二十年、同じ電車に乗っている。

早い電車もある。五時台に出れば、昼前には着く。

乗ったことはない。

同じ電車でなければ意味がない、と思っている。

その意味が何なのかは、自分でも説明できない。

説明できないまま、二十年続けている。

妻には、行ってくる、とだけ言う。妻も、いってらっしゃい、としか言わない。

最初の何年かは、いっしょに行こうかと言われた。断った。

断った理由も説明していない。それきり言われなくなった。

言われなくなったことを、こちらは助かっている。

六時四十二分という時刻を、いつまで覚えていられるかは分からない。

時刻表は変わる。二年前に一度、四十二分が三十九分になった。

三分だけ早くなった。

その年は、三分早い電車に乗った。乗るしかなかった。

乗りながら、これはもう同じ電車ではないのかもしれない、と思った。

次の改正で、四十二分に戻った。

戻ったときに、少し安心した。安心したことを、あとで少し恥ずかしく思った。

第二章 あの日

二十年前のその日、会社で知らせを受けた。

昼を少し過ぎたころだった。父が倒れた、と弟から電話が来た。

すぐ出た。すぐ出たつもりだった。

それでも、六時四十二分の電車になった。

三時間、座っていた。

何も考えていなかったわけではないが、何を考えていたかは覚えていない。

窓の外を見ていた記憶はある。景色は覚えていない。

着いて、駅からタクシーで病院へ行った。

終わっていた。

十五分ほどだった、とあとで聞いた。

その十五分という数字は、弟が言った。悪気があったわけではない。

言わなくてよかったのに、と思った。

思ったが、言うなとも言えなかった。言うなと言えば、責めたことになる。

責めるつもりはなかった。いまもない。

病院の廊下は明るかった。夕方なのに、昼のような明るさだった。

弟が立って待っていた。何も言わずに、こちらを見た。

その顔で分かった。

分かってから何を言ったかは、覚えていない。たぶん何も言っていない。

部屋に入って、顔を見た。

あたたかかった。それだけは覚えている。

手を握ったかどうかは、覚えていない。

握ったような気もするし、握らなかったような気もする。

二十年たつと、そこも曖昧になる。

曖昧になったことのほうが、少し怖い。

第三章 五時台

五時台の電車があることは、あの日も知っていた。

知っていて、乗れなかった。

会社の片づけがあった。

片づけといっても、机の上を整えて、上司に一言断るだけのことだ。

長くて十五分のことだ。

その十五分が、そのまま十五分になった。

因果があるかどうかは分からない。

早い電車に乗っていても、乗り換えで間に合わなかったかもしれない。

分からないので、確かめようもない。

確かめられないものを、二十年考えている。

以来、毎年その日は六時四十二分に乗る。

早い電車には乗らない。

乗ったら、あの日を無かったことにする気がする。

無かったことにして何がいけないのかは、分からない。

分からないが、乗らない。

一度だけ、五時台に乗ろうとしたことがある。

十年目の年だ。前の晩に、目覚ましを早くかけた。

鳴ったのに、起きなかった。

起きられなかったのではない。鳴っているのを聞いて、手を伸ばし、止めた。

止めて、そのまま寝た。

次に起きたときには、六時前だった。

六時四十二分には、間に合った。

あのとき、なぜ止めたのかは分からない。

分からないが、たぶん、乗りたくなかったのだと思う。

乗れば、間に合ってしまう。

間に合ってしまうと、二十年が終わる。

第四章 行っても

着いて、実家に入る。いまは弟の家になっている。

弟の嫁が茶を出す。二人とも慣れている。

仏壇に手を合わせる。線香を上げる。

昼を食べる。天気の話をする。近所の誰それが亡くなった、という話も出る。

夕方の電車で帰る。

それだけだ。二十年、それだけをしている。

弟は何も言わない。

最初の何年かは、泊まっていけと言った。

言わなくなった。言わなくなったのは、こちらが一度も泊まらないからだ。

泊まらない理由も、説明していない。

説明していないことばかりが増えていく。

増えたぶんだけ、話は短くなる。

弟の子は、もう三十を過ぎている。

その子は祖父を覚えていない。三つのときだったから、当然だ。

覚えていない人が、いまはその家に住んでいる。

それを寂しいとは思わない。

思わないことのほうを、少し気にしている。

その子は、こちらが毎年来る日を知っている。

知っていて、その日は家にいない。

気を遣っているのだと思う。

遣わなくていい、と言ったことはない。

言えば、その日も家にいるようになるかもしれない。

いてもらう理由が、こちらには無い。

第五章 弟

弟はあの日、そばにいた。

同じ町に住んでいたから、二十分で着いた。

間に合った。

弟が間に合ったことを、恨んだことはない。

恨んだことはないが、羨ましいと思ったことはある。

羨ましい、というのも違う気がする。

最後を見た側のほうが、辛かったかもしれない。

見ていない側は、想像するしかない。

想像は、何度でもやり直せる。

やり直せるので、二十年、同じことを想像している。

どんな顔だったか。何か言ったのか。言わなかったのか。

弟に聞けば分かる。聞いたことはない。

聞けば、想像が一つに決まってしまう。

決まってしまうと、たぶん楽になる。

楽になるのが嫌なのだと思う。

楽になったら、来年の電車に乗る理由が無くなる。

理由が無くなると、この二十年が何だったのかという話になる。

その話をしたくない。

したくないだけで、いつかはする日が来るのかもしれない。

来るとしたら、弟が弱ってからだと思う。

弟は三つ下だ。まだ元気にしている。

元気なうちは、聞かない。

聞かない理由が、また一つ増えた。

エピローグ

今年も六時四十二分に乗った。

席は決めていない。空いているところに座る。

窓の外は毎年少しずつ変わる。田んぼが減って、家が増えた。

三時間で着く。二十年、三時間のままだ。

着いても、もう誰も倒れていない。

――間に合わなかったものに、二十年かけて間に合おうとしている。

間に合わないことは分かっている。

分かっていて、来年も同じ電車に乗ると思う。

やめる理由が見つかれば、やめるのかもしれない。

二十年、見つかっていない。

弟が先に死ぬか、こちらが先に死ぬかで、この日は終わる。

終わったあと、この日のことを覚えている人はいない。

妻は知っているが、日付までは知らない。

言っていないので、当然だ。

言えば、妻はその日、何か言うと思う。

何か言われると、この日が二人のものになる。

二人のものになったら、たぶん来年から乗らない。

あなたにも、間に合わなかったものがありますか。

ソウルミッション358

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