断られたまま
継ぐこと

朗読で聴く
第一章 四十五年
レイ・モーガンは六十八になった。
この町で、刃物と道具を研いでいる。四十五年になる。
父の店ではない。父は鉄道で働いていた。
二十三のときに、町の外れにいた男に習った。名前はハンクといった。
ハンクは誰にも店を渡さずに死んだ。道具は競売に出て、散らばった。
どこへ行ったかは知らない。探したこともない。
朝は七時に開ける。夕方は五時に閉める。
客は多くない。肉屋が二軒、床屋が一軒、あとは近くの農家が何軒か。
研ぐものは決まっている。包丁、鋏、かんなの刃、のこぎり。
砥石は壁の棚に並べてある。粗いものから細かいものまで、順に並んでいる。
砥石は減る。真ん中からへこんでいく。
へこんだら平らに直す。直せばまた使える。
四十五年、そうしてきた。
直した砥石が何枚あるか、数えたことはない。
研ぎというのは、減らす仕事だ。
刃を減らして、鋭いところを出す。
減らせば、その刃はいつか無くなる。
四十五年やっていると、自分が研いで無くなった刃が何本もある。
無くなった刃のことは、持ち主も覚えていない。
覚えているのは、こちらだけだ。
それも、覚えているというほどのことではない。手のほうが覚えている。
第二章 二年
息子のトムが手伝ったのは、二年だけだ。
二十二から二十四までのあいだ。
覚えは悪くなかった。手も良かった。
教えたことは、たいてい二度で入った。
二年で、包丁はひとりで研げるようになった。のこぎりの目立ても、半分は覚えた。
のこぎりの目立ては難しい。歯を一本ずつ見て、同じ角度に立てていく。
あれが半分できるようになるのに、普通は五年かかる。
トムには言わなかった。
うまいと言うと、次の日に力が入る。力が入ると角度がぶれる。
だから、何も言わずに横で見ていた。
ハンクも、こちらに何も言わなかった。同じようにしただけだ。
いま思うと、そこは変えたほうがよかったのかもしれない。
二年しかいない相手に、五年かける教え方をした。
三年目の春に、言われた。
これはやらない、と言った。
責めるふうではなかった。怒ってもいなかった。
決めたことを言う言い方だった。
どこで決めたのかは聞かなかった。
聞けば答えたと思う。聞かなかった。
第三章 引き止めなかった
レイは引き止めなかった。
引き止める理由が、そのとき見つからなかった。
儲かる仕事ではない。楽な仕事でもない。
二年やれば、それは分かる。分かったから、やめたのだと思う。
分かった上でやめるのは、正しい。
正しいことに、何を言えばいいのか分からなかった。
だから、分かった、とだけ言った。
トムは、ありがとう、と言った。
それで終わった。話は五分もかからなかった。
その日の午後も、いつもどおり包丁を研いだ。
手は普通に動いた。動いたことを、あとで思い出した。
その日のことを、十九年考えている。
考えているというより、ときどき出てくる。
包丁を研いでいるときに出てくることが多い。
同じ手の動きをしているからだと思う。
あの日の午後も、同じことをしていた。
手が同じことをしていると、頭のほうは別のところへ行く。
四十五年、そうやってきた。
別のところへ行ったまま、戻ってこない日もある。
第四章 何を言えばよかったか
何を言えばよかったのかは、いまも分からない。
続けろ、とは言えない。
言う資格がない。自分もハンクに何も返していない。
ハンクの道具は散らばった。散らばったことを、こちらは止めなかった。
止めようと思えば、いくらかは買えた。買わなかった。
あのころは自分の店を始めたばかりで、金が無かった。
金が無かったのは本当だ。本当だが、それだけでもなかったと思う。
自分の道具は、そうならないようにしてある。
一式そろえて、二つ目の台に並べてある。
並べたのは、トムが出ていった年の秋だ。
誰かのために並べたのではない。
並べておかないと、ハンクと同じになる気がした。
ハンクと同じになる、というのが何を指しているのかは、自分でもはっきりしない。
散らばるのが嫌なのか、散らばるのを止めなかった自分に似るのが嫌なのか。
たぶん、後のほうだ。
道具は、こちらが死んだあとどうせ散らばる。並べてあっても同じことだ。
同じことなのに、並べてある。
並べてあるものを見て、誰かが何かを思うことはないと思う。
思われなくてもいい。見せるために並べているのではない。
では何のために並べているのか、というところに戻る。
戻って、いつも同じところで止まる。
第五章 二つ目の台
作業台は二つある。
手前のは、四十五年使って、真ん中がへこんでいる。
もう一つは平らなままだ。トムが二年使って、そのあと誰も使っていない。
平らな台の上に、道具が一式並べてある。
砥石が四枚、当て木、油の缶、革砥。順番も、間の空け方も決めてある。
埃は払う。週に一度、並べたまま拭く。
動かして拭くと、位置が変わる。
変わるのが嫌なので、置いたまま拭く。
十九年、位置は変わっていない。
一度だけ、動いていたことがある。
五年前の夏で、猫が入ったらしい。革砥が床に落ちていた。
拾って、元の位置に戻した。
戻すのに、少し時間がかかった。どこだったかを思い出すのに、ではない。
位置は覚えている。戻す前に、しばらく持っていた。
――渡す相手はもういない。それでも、渡せるようにしてある。
誰かが来ることを待っているわけではない。
待っていないのに、そうしている。
そうしていることに、名前はつけていない。
つけようとしたこともない。
名前がつくと、続けている理由を説明できることになる。
説明できると、その説明が正しいかどうかを考えることになる。
考えて、正しくないと分かったら、やめることになるかもしれない。
やめたくないので、名前をつけない。
そこまでは分かっている。分かっていて、そうしている。
エピローグ
トムは年に二度来る。仲は悪くない。
二人の子がいて、写真も見せてくれる。
上の子は十四で、手先が器用らしい。
その話をされたとき、こちらは何も言わなかった。
言わなかったのは、あの日と同じだ。
同じことを、二度している。
二度目は、何を言えばいいか分かっている気もする。
分かっている気がするだけで、たぶん言わない。
言わないほうが、あの子のためだとも思う。
思うが、それも十九年前と同じ理屈だ。
来ると、作業場に入って、少し立って、出ていく。
二つ目の台のことは、何も言わない。
見ていないはずはない。あの台の前を通らないと外に出られない。
見ていて、言わない。
こちらも言わない。
言えば、あの日のことに戻る。
戻って、何かが変わるとも思えない。
今日も七時に開けた。包丁が三本来た。研いで、夕方に返した。
明日も同じだと思う。
いつまで続けるかは決めていない。
手が動くうちは開ける、というくらいのことだ。
開けているあいだは、二つ目の台もそのままにしておく。
あなたにも、断られてなお続けているものがありますか。
あなたの魂のテーマに気づく場所