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まだ渡していない

継ぐこと

まだ渡していない

朗読で聴く

第一章 朝の一番

岡田は六十四になった。

町の和菓子屋を四十年やっている。父の代からの店で、あとを継いだのは二十四のときだ。

朝は四時に起きる。着替えて、作業場に降りて、五時に火を入れる。

朝の一番の一釜は、自分がつくる。

四十年、そこは変えていない。

一釜といっても、たいした量ではない。朝いちばんに来る客の分と、仏壇に供える分を買っていく人の分だ。

同じ木型で、同じ形にする。型は父が使っていたものを、そのまま使っている。

木型は減る。三十年でひとつ、輪郭が丸くなったものがある。丸くなったぶんだけ、菓子の角も丸い。

客はそれに気づかない。気づかないが、菓子は毎年少しずつ違うものになっている。

その違いを知っているのは、この店で自分だけだ。

父から教わったとき、父は何も言わなかった。

横に立たせて、やって見せるだけだった。

聞けば答えたが、こちらから聞かない限り、何も言わない人だった。

教わった、という感じはしなかった。見ているうちに、いつのまにかできるようになっていた。

父が店に出なくなったのは、七十二のときだ。

ある朝、降りてこなかった。それだけだった。

言われたわけでも、渡されたわけでもない。

あれが渡すということなのかどうか、いまも分からない。

分からないまま、こちらは四十年やってきた。

やってきたので、渡し方も父と同じでいいはずだ。

ある朝、降りていかない。それだけでいい。

いいはずなのに、そうしていない。

六年前から、二番目の釜からは嫁のゆかりがやっている。

第二章 教える

ゆかりが来たのは六年前だ。息子と結婚して、そのまま店に入った。

勤めを辞めて入る、と言われたとき、無理をしなくていい、と一度は言った。

ゆかりは、やりますと言った。その言い方が、思ったより静かだった。

最初の年は、量りと火加減だけを教えた。

粉を量るのは、慣れれば誰でもできる。火加減は、教えても伝わらない部分が残る。

二年目に、木型を持たせた。

押し方には癖が出る。最初のうちは、ゆかりの菓子は角が立ちすぎた。

三年目に、餡が同じになった。

同じになった日のことは覚えている。味を見て、自分のものと区別がつかなかった。

四年目には、客が何も言わなくなった。

それまでは、今日のはいつもと違うね、と言う人が何人かいた。言われなくなった。

言われなくなったということは、届いたということだ。

ゆかりは、褒めると次の日に固くなる。

だから、うまくなったとは言わないようにしている。

言わないほうがよく育つ、というのは、教えていて分かったことだ。

ただ、それも都合のいい理屈かもしれない、と近ごろは思う。

もう、ひとりでつくれる。

味も形も、こちらと区別がつかない。自分でも、どちらの手のものか分からない日がある。

第三章 手を忘れるから

それでも、朝の一番だけは自分がやっている。

ゆかりは何も言わない。四時に起きてきて、隣で二番目の支度をする。

一度だけ、言われたことがある。三年目の冬だ。

お母さん、朝は休んでください、と言われた。

手を忘れるから、と答えた。

ゆかりは、そうですね、と言った。それきり言わない。

手を忘れる、というのは嘘ではない。

四十年やっていても、三日休むと戻すのに一週間かかる。指が覚えているようで、覚えていない。

嘘ではないが、本当でもない。

三日休めば鈍る、というのと、六年間ずっと自分がやる、というのは、話がつながっていない。

つながっていないことを、ゆかりは分かっていると思う。

分かっていて、そうですね、と言った。

あの冬から、ゆかりは朝のことを一度も言わない。

言わないでいてくれるので、こちらは助かっている。

助かっている、というのは、ずるい言い方だと思う。

言わないでいるほうが、言うより疲れる。それを六年やらせている。

第四章 本当の理由

本当の理由は、言っていない。

渡すと、自分がいらなくなる。

いらなくなる、というのは大げさかもしれない。

渡しても店にはいる。掃除もするし、店番もするし、仕入れの電話もかける。

やることは残る。残るが、朝の一番をやらない自分が、この店の何なのかは分からない。

分からないのが怖い。

怖いと思っていることも、言っていない。

言えば、たぶんゆかりは、いてくださるだけでいいです、と言う。

言われたら、そのとおりだと思ってしまう気がする。

思ってしまうと、もう戻れない。

だから聞かない。聞かれてもいないのに、そこまで考えている。

六年、言わないまま来た。

言わない理由を、年のせいにできる時期はもう過ぎた。

六十四は、渡すのに遅くない。むしろ遅いくらいだ。

同じ町で、五十のうちに渡した人を二人知っている。

二人とも、いまは店の隅に座って、客と話している。

座っているところを見て、うらやましいとは思わなかった。

思わなかったのが、たぶん答えなのだと思う。

あれでいいのだと思う。思うが、自分がそうなっているところは想像できない。

第五章 粉

ゆかりも言わない。

待っていることは分かる。

分かるのは、ゆかりが朝の一番の分の粉を、毎朝きちんと量って置いておくからだ。

一番は自分がつくるのだから、ゆかりが量る必要はない。

六年、毎朝置いてある。

量りの隣に、いつも同じ位置に、同じ量だけ置いてある。

一度も、私がやりますとは言わない。

置いてあるのが、そのかわりなのだと思う。

――待っていると言わずに、待っている。

こちらも、渡さないと言わずに、渡していない。

二人とも同じことをしている。

同じことをしているので、話が起きない。

話が起きないまま、六年が過ぎた。

起きなければ楽だ、と思っていた時期もある。いまは思っていない。

いつか、こちらが降りていけない朝が来る。

その朝にも、粉は量ってあるはずだ。

そのときは、ゆかりが一釜つくる。それで済む。

済んでしまうことが、少し怖い。

渡さなくても、いつかは渡る。

だが、渡ったあとで、渡したことにはならない。

渡すというのは、こちらが手を離すことだ。手が離れるのとは違う。

その違いを、ゆかりに説明したことはない。

説明したら、それだけで渡したことになってしまう気がする。

エピローグ

今朝も四時に起きた。

降りていくと、粉は量ってあった。

火を入れて、一釜つくった。四十年と同じ手つきで、同じ形にした。

しばらくして、ゆかりが降りてきて、二番目の支度を始めた。

おはようございます、と言われて、おはよう、と答えた。

それだけだった。いつもどおりだった。

――渡せる状態のまま、渡していない。

この状態がいつまで続くのかは、決めていない。

決めていないことも、言っていない。

息子は何も言ってこない。たぶん、ゆかりが言わせていない。

言わせていないことも、たぶんこちらのためだ。

そこまでしてもらっていて、まだ渡していない。

明日も四時に起きる。

粉は、量ってあると思う。

あなたにも、渡せないままのものがありますか。

ソウルミッション358

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