気づいていた
分かってしまうこと

朗読で聴く
第一章 壁
森田は六十四になった。
この団地に越してきて十二年になる。四階の端から二番目の部屋で、ひとりで住んでいる。
壁が薄い。
薄いというのは、越してきた日に分かった。荷物を置いていたら、隣で水を使う音がした。
最初の年は気になった。二年目には慣れた。
慣れてからは、時計のように使うようになった。
朝は六時二十分に目覚ましが鳴る。すぐ止まる。
六時五十分に水の音がする。顔を洗っているのだと思う。
七時二十分に玄関の戸が開いて、閉まる。それで出ていく。
夜は七時ごろに戻る。戸の音がして、しばらくして水の音がする。
八時前からテレビの音が小さく聞こえる。何を見ているかまでは分からない。
十一時にテレビが消える。その少しあとに、部屋の明かりが消えるのが廊下側から分かる。
十二年、それを聞いている。
音で分かるのは、時刻だけではない。
風邪をひいた週は、夜中に咳が聞こえる。
機嫌のいい日は、鼻歌のようなものが聞こえることがある。年に何度もない。
そういうことまで分かってしまう。
聞き耳を立てているのではない。壁が薄いだけだ。
むしろ、聞こえないほうがいい。
聞こえないようにする方法があるなら、そうしたと思う。
壁に厚い布を貼るとか、そういうことを一度は考えた。考えて、やらなかった。
やらなかった理由も、はっきりしない。金がかかるからでもなかった。
いま思えば、聞こえなくなるのが少し不安だったのかもしれない。
第二章 名前を知らない
隣の人には、会ったことがある。
年に何度か、廊下ですれ違う。会釈をする。向こうも会釈を返す。
それだけで、話したことはない。
名前は知らない。表札は出ていない。
男の人で、六十くらいだろうと思う。それ以上は知らない。
知らないのに、その人が何時に起きて何時に出るかは知っている。
変な話だと思うが、団地に住んでいると珍しくないのだと思う。
こちらの音も、たぶん向こうに聞こえている。
だから、夜は掃除機をかけない。十一時を過ぎたら台所も使わない。
いつからそうしているのか、覚えていない。
気がついたら、そういう暮らし方になっていた。
――向こうの音に、こちらの一日が合っている。
合わせているつもりはない。合ってしまっている。
向こうも、たぶん同じようにこちらに合わせている。
こちらが風呂を使う時間に、向こうは水を使わない。
十二年やっていると、そうなる。
二人で決めたわけではない。決めていないのに、決まっている。
それを言葉にしたことは、どちらにも無い。
第三章 三日
春先の火曜日だった。
朝、目覚ましが鳴らなかった。
鳴らないことは、これまでにもあった。休みの日はそうだ。
だが火曜日だった。
六時五十分の水の音もしなかった。七時二十分の戸の音もしなかった。
旅行かもしれない、と思った。
思ってから、違うと分かった。
旅行なら、前の晩に荷物を出す音がする。押し入れを開ける音がして、それから何度か行き来する音がする。
十二年聞いていれば、そのくらいは分かる。前の晩、その音はしなかった。
入院かもしれない、とも思った。
入院なら、朝に人が来るか、本人が荷物を持って出る。どちらでも戸の音がする。
戸の音はしなかった。
夕方になっても、戻る音がしなかった。
その夜、テレビの音もしなかった。
二日目も同じだった。
二日目の朝、廊下に出て、隣の戸の前を通った。
新聞を取っていない人なので、たまっているかどうかで分かるわけでもない。
郵便受けを覗こうかと思って、やめた。
覗いているところを誰かに見られたら、と思った。
二日目の夜、森田は壁のほうを向いて座っていた。
中にいて、動いていない。そう分かった。
声をかけようかと思った。
思って、かけなかった。
第四章 かけなかった理由
理由ははっきりしている。
声をかければ、どうして分かったのかと聞かれる。
音がしないから、と答えることになる。
そう答えたら、十二年ぶん聞いていたことになる。
聞いていたと思われたくなかった。
実際に聞いていたのだから、思われるも何もない。知られたくなかった、というほうが正しい。
隣の人は、こちらが聞いているとは思っていないだろう。
思っていないだろう、という状態がずっと続いてきた。
その状態を、自分から壊したくなかった。
――隣の人より、そちらを選んだ。
選んだつもりはなかった。
つもりはなくても、選んだことになる。
あの二日のあいだ、森田は普通に暮らしていた。飯を作って、食べて、寝た。
寝られなかったわけでもない。
そのことを、あとになって何度か思い出した。
人ひとりが動けなくなっているかもしれないと思いながら、飯を食っていた。
そういう自分を、薄情だとは思わない。
薄情なら、二日も気にしていない。
気にしていて、動かなかった。そちらのほうが、説明しにくい。
第五章 三日目
三日目の昼に、救急車が来た。
誰が呼んだのかは分からない。管理人かもしれないし、親戚かもしれない。
管理人が来て、鍵を開けた。
人が何人か入って、しばらくして担架が出てきた。
森田は廊下に出て、それを見ていた。
見ていたが、何も言わなかった。
救急隊の人が、管理人に、いつからですかと聞いていた。
管理人は、分かりません、と答えた。
そのとき、森田の口は動かなかった。
動かそうと思えば動いた。二日前です、と言えばよかった。
言わなかったのは、そこに人が何人もいたからだ。
人のいるところで言えば、二日前から知っていたと全員に分かる。
言うことがなかった、というのとは違う。言えることはあった。
二日前から音がしていません、と言えた。言わなかった。
一週間して、隣の部屋に明かりがついた。
生きて帰ってきたのだと分かって、そのときは息が抜けた。
数日して、廊下で会った。少し痩せていた。
ご迷惑をおかけしました、と言われた。
いいえ、と言った。
それだけだった。
――あの人は、こちらが二日前から気づいていたことを知らない。
知らないままでいる。
言うつもりはない。
いま言えば、あの二日のことを持ち出すことになる。
持ち出して、どうなるものでもない。
いまさら聞かせても、あの人が困るだけだと思う。
困らせないためだと言えば、それらしく聞こえる。
それらしく聞こえるものは、たいてい自分のためだ。
エピローグ
いまも音は聞こえる。
目覚ましの時刻が三十分遅くなった。水の音も遅い。
仕事は辞めたのだと思う。戸の音が朝に無くなった。
変わったことは、こちらには分かる。
分かるが、言わない。
言えば、また同じところに戻る。
あれから、廊下で会えば会釈をする。向こうもする。
前と何も変わらない。
変わらないのが、いいことなのかどうかは分からない。
聞こえてしまうこと自体は、悪いことではないと思っている。
――聞こえてしまうのは、罪ではない。
黙っていたことのほうだ。
次に同じことがあったら、どうするか。
たぶん、また黙ると思う。
そう思っている自分のことを、森田はまだ何とも呼べていない。
あなたにも、分かっていて黙っていることがありますか。
あなたの魂のテーマに気づく場所