先に言ってしまう
分かってしまうこと

朗読で聴く
第一章 三十年
高木は五十七になった。
この店を継いで三十年になる。父の代からの理容店で、通りに面した硝子戸も、椅子も、そのまま使っている。
朝は八時に来て、椅子を拭く。座面の緑のビニールは、三十年で二度張り替えた。
九時に開ける。開けるとすぐ、誰か来る。
客が椅子に座る。鏡に映る。
その顔を見た瞬間に、今日その人が何を言い出すかが分かる。
分かる、というのは大げさかもしれない。だいたい合う、というほうが正しい。
だいたい合うのが三十年続いたので、分かると言ってしまってもいいのだと思っている。
今朝の客もそうだった。座って、鏡の中でこちらを見た。
短くしすぎないでほしい、と言おうとしていた。
言われる前に、高木は言った。今日は控えめにしておきましょうか。
客は、そうそう、それ、と言った。それで、その話は終わった。
あとは野球の話をして、四十分で切り終わった。
次の客は、しらがを染めるかどうか、いつも迷う人だった。
椅子に座って、鏡を見て、少しのあいだ黙った。
そこで少し黙ったので、今日は染めないと決めているのが分かった。
高木は、今日はこのままにしておきましょうか、と言った。
客は、そうしようかな、と言った。迷っていたことは、口に出さずに済んだ。
済ませてやったのか、済ませなかったことにしたのかは、分からない。
どこで分かるのかは、うまく言えない。
目の動きだとか、座り方だとか、そういうことを挙げれば挙げられるが、挙げたところで嘘になる。
見た瞬間に、もう分かっている。挙げているのは、あとから付けた理屈だ。
第二章 合わせる
分かったあと、どうするか。
高木は、合わせる。
合わせると、会話が短くなる。相手は言わずに済むし、こちらも聞かずに済む。
済んだ、という形になって、話が前に進む。
客は喜ぶ。ここの人は分かってくれる、と言われることがある。
分かってはいる。分かったうえで、相手が言いやすいほうを選んで言っている。
それを分かってくれたと呼んでいいのかどうかは、高木には決められない。
合わせないという手もある。相手が言い終わるのを待って、それから自分の考えを言う。
やらない。もう長いことやっていない。
二十代のころに、一度だけやった。
常連の客が、若い者に任せると失敗する、というようなことを言った。半分は冗談だったのだと思う。
高木は、そうは思いません、と言った。言ってから、店の中が静かになった。
その客は、そのときは笑って帰った。次から来なかった。
それが理由かどうかは、いまも分からない。引っ越したのかもしれないし、体を悪くしたのかもしれない。
分からないのに、あれ以来、合わせている。
だから、あれを理由にしているだけかもしれない、とも思う。
理由にできるものが一つあると、人は三十年それでやっていける。
それに、合わせるのは疲れない。
自分の考えを言うほうが、よほど疲れる。言えば相手の顔を見なければいけないし、違うと言われたら何か返さなければいけない。
合わせておけば、何も起きない。
何も起きないまま一日が終わって、終われば、よく眠れる。
第三章 妻
妻とは三十八年になる。
去年の秋に、夕飯のときに言われた。
あなた、私の話に、いつも先に答えるのね。
責める言い方ではなかった。気がついたことを、そのまま言っただけだった。
高木は、そうかな、と言った。
言いながら、そうだと思った。
答えているのではない。合わせている。答えるというのは、相手の言うことを最後まで聞いてからすることだ。
そう言おうかと思って、やめた。
言えば、それも合わせたことになる。妻が求めている返事に近いほうを選んで言うことになる。
だから何も言わずに、味噌汁を飲んだ。
妻が何を言おうとしているかも、たいてい分かる。
分かるので、先に言う。三十八年、そうしてきた。
――妻は、自分の話を最後まで言ったことがあるだろうか。
考えたが、思い出せなかった。
思い出せないというのは、たぶん、無いということだ。
妻は、先に答えられても怒らない。
怒らないので、三十八年続いた。
どこかで一度きつく怒られていたら、直っていたかもしれない。
直らなかったのは、妻のせいではない。
第四章 七万五千回
一日に何人切るか、数えたことはなかった。
去年、組合の書類に延べ人数を書く欄があって、そのとき初めて出した。
一日に十人。年に二百五十日。三十年。
七万五千になる。
紙に書いてから、その数をしばらく見ていた。
七万五千回ぶん、相手より先に言ってきた。
多いとも少ないとも思わなかった。ただ、一つだけ引っかかることがあった。
七万五千回、話が成立している。
成立しなかったことが、一度も無い。
そうそう、それ、と言われなかったことが、思い出せない。
三十年やって一度も外していないというのは、腕がいいのとは違う気がする。
外れないように言っているのだから、外れないだけだ。
相手が何を言いたいかに合わせて言葉を選べば、あたるに決まっている。
当たり続けているのは、当てているからではない。
そう考えると、七万五千という数は、腕の数ではない。
言わずに済ませた数だ。
こちらが言わずに済ませたぶんと、相手が言わずに済んだぶんと、両方が入っている。
どちらが多いのかは、分けられない。
第五章 最後の客
三年前に、長い付き合いの客が来た。
八十を越えていて、月に一度来る人だった。
髪はもう薄くて、切るところはあまり無かった。それでも月に一度、同じ時間に来た。
切るために来ているのではない、ということは、こちらも分かっていた。
分かっていて、切っていた。それについては、何も言わずにきた。
言わずにきたのは、たぶん正しかったのだと思う。
その日、椅子に座って、鏡の中でこちらを見た。
いつもと違うことを言おうとしている、と分かった。
もう来られないかもしれない、と言おうとしていた。
高木は、また来月ですね、と言った。
言ってから、しまった、と思った。思ったが、口はもう出たあとだった。
客は、そうだね、と言った。
そうだね、と言って、四十分座って、帰った。
それきり来なかった。
――あの日、先に言わなければ、あの人は言えた。
惜しい、というのとは少し違う。
こちらが口を先に出したせいで、あの人がこの店で最後に言った言葉が、そうだね、になった。
その一言を、高木が選ばせた。
選ばせるつもりは無かった。無かったが、選ばせたことは変わらない。
エピローグ
今日も八時に来て、椅子を拭いた。
九時に開けて、客が座った。鏡に映った。
分かった。
先に言った。客は、そうそう、と言った。
合わせているだけだということを、こちらは知っている。相手は知らない。
三十年、その差の上に立っている。
――分かってしまうのは、力ではない。
口が先に出るだけのことだ。
直せるかというと、たぶん直せない。三十年かけて口のほうが速くなった。
あなたにも、相手より先に分かってしまうことがありますか。
あなたの魂のテーマに気づく場所