聞けば、たぶん言う
信じること

朗読で聴く
第一章 四十分
浅井文子は六十八歳になった。
夫は七十で、去年まで嘱託で働いていた。いまは家にいる。
夕方、四時半ごろになると、夫は上着を着て出ていく。
行ってくる、と言う。文子は、はい、と言う。
戸が閉まって、四十分ほどで帰ってくる。
早い日で三十五分、遅い日で四十五分くらいだ。時計を見ているわけではないが、だいたい分かる。
帰ってくると、ただいま、と言う。文子は、おかえり、と言う。
それだけだ。どこへ行ってきたかは言わない。
文子も聞かない。
四十年、聞いたことがない。
行き先を書いた紙が置いてあるわけでもない。携帯に連絡が入るわけでもない。
出ていって、帰ってくる。それだけが四十年ぶん重なっている。
重なっているものを、文子は数えたことがない。数えると、たぶん何かが変わる。
働いていたころは、休みの日の夕方だけだった。定年になってから毎日になった。
毎日になっても、聞かないことは変わらなかった。
雨の日は出ない。台風の日も出ない。それ以外は出る。
夏でも冬でも同じ時刻に出るので、暗くなるのが早い季節は、帰りは真っ暗になる。
懐中電灯を持っていくようになったのは、去年からだ。持っていけと言ったのは文子で、それは言った。
行き先は聞かないが、危ないことは言う。そこは分けている。分けているつもりも、特に無い。
第二章 四十年
始まったのがいつかは、はっきりしている。
下の子が小学校に上がった年の春だ。文子が三十を少し過ぎたころで、夫が急に、夕方に出るようになった。
最初の何日かは、どこへ、と聞こうとした。
聞こうとして、聞かなかった。
そのときの理由は覚えている。夫が、行ってくる、と言う言い方が、ふだんと同じだったからだ。
どこかへ行くときは、行き先を言う人だった。買い物なら買い物と言う。言わないということは、言うほどのことではないのだと思った。
言うほどのことではないなら、聞くほどのことでもない。
そう思って、その日は聞かなかった。
次の日も同じ言い方だったので、また聞かなかった。
三日め、四日めと過ぎて、一週間になり、一か月になった。
一か月を過ぎたころには、もう聞ける感じではなくなっていた。
いま聞くと、一か月ぶん黙っていたことになる。それが少し重い。
重いというほどでもないのだが、口が動かない。
そのまま四十年になった。
途中で聞ける機会はあった。数えれば何度もある。
子どもが独立した年。夫が入院した年。文子の母が死んだ年。
そういう区切りのときには、いろいろな話をした。話をしたが、そのことは出なかった。
出なかったというより、出す気にならなかった。
第三章 聞かない
隠されているわけではない。
夫は隠しごとをする人ではない。財布の中も、携帯も、置きっぱなしにしている。
聞けば、たぶん言う。
言い渋る顔も想像できない。ああ、川のほうを、とか、そんなふうに言うのだと思う。
思うだけで、確かめたことはない。
疑っているわけでもない。
疑っていたら、四十年ももたない。どこかで聞いていたはずだ。
疑っていないのに聞かない、というのが、自分でもよく分からない。
分からないので、説明したことがない。娘にも息子にも言っていない。
言えば、聞けばいいじゃない、と言われる。それはそのとおりだ。
そのとおりなのに、聞かない。
聞かない理由を探すと、いつも同じところに戻る。
聞いてしまうと、四十年ぶんの聞かなかった時間に、名前がつく。
名前がつくと、その時間が何だったのかを決めなければいけなくなる。
決めたくない。何だったのかを決めないまま、置いておきたい。
置いておけるうちは、置いておく。
置いておけなくなる日が来るとすれば、どちらかが動けなくなったときだと思う。
そのときには聞くのかというと、たぶん聞かない。
聞かないまま終わることもある。終わっても、困る人はいない。
第四章 八千歩
娘は数える人だ。
去年の正月に帰ってきて、父に、お父さん一日何歩歩いてるの、と聞いた。
夫は、八千歩くらいかな、と答えた。万歩計は持っていないので、たぶん当てずっぽうだ。
娘は、少ないよ、一万は歩かないと、と言った。それで話は終わった。
娘は歩数を数える。健康の話をするときは数で話す人だ。
文子は数えていない。
四十年で何日になるかは、掛け算をすれば出る。休みの日だけの年もあるので、正確には出ないが、一万日は超えていると思う。
一万日ぶん、聞いていない。
出るが、数えたことはない。
その日数を数えたところで、聞ける日が一日でも増えるわけではない。
増えないので、数えない。
娘は、行き先のことは聞かなかった。毎日出ていることも知っているはずだが、聞かない。
うちはそういう家なのだと思う。
息子も同じで、帰ってきても父の散歩の話はしない。
二人とも、子どものころから見てきたので、当たり前のことになっているのだと思う。
当たり前のことは、人に説明しない。説明されないまま育つと、それは疑問にもならない。
第五章 川沿い
三年前の秋に、一度だけ、見かけた。
買い物の帰りで、いつもと違う道を通った。川沿いの遊歩道だ。
手すりの先に、ベンチがあって、人が座っていた。
後ろ姿と、上着の色で、夫だと思った。
距離は五十メートルくらいあった。近づけば分かる。
――近づけば、済んだ。
文子は近づかなかった。
立ち止まって、少し見て、それから来た道を戻って、遠回りして帰った。
なぜ戻ったのかは、そのときも分からなかった。いまも分からない。
その日の夕飯のとき、夫はいつもどおりだった。
今日はどこまで行ったの、と聞けば、そこで済んだ。聞かなかった。
だから、あれが夫だったのかどうかも、いまだに確かめていない。
似た上着の人だったのかもしれない。そうでないのかもしれない。
どちらでもいい、というのとは少し違う。
どちらかに決まってしまうのが、たぶん惜しい。
あの日から、川沿いの遊歩道を通っていない。
避けているわけではない。買い物の道は前から別なので、通る用が無いだけだ。
用が無いというのは本当だが、作ろうと思えば作れる。作っていない。
作らないことを決めたわけでもない。その道を思い出すこと自体が、あまり無い。
エピローグ
今日も四時半に出ていった。
行ってくる、と言った。文子は、はい、と言った。
戸を閉めて、台所に戻った。
夫も、こちらが四十年聞かないことを知っていると思う。
四十年、一度も聞かれない人が、それに気づかないということはない。
気づいていて、言わない。
――二人とも知っていて、二人とも触れない。
それを何と呼ぶのかは、たぶん名前がある。文子は知らない。
知らないままで、四十六年いっしょにいる。
四十分ほどで帰ってくると思う。
帰ってきたら、おかえり、と言う。それだけを四十年やっている。
明日も同じだと思う。同じでない日が来たら、そのときに考える。
あなたにも、確かめないまま続けているものがありますか。
あなたの魂のテーマに気づく場所