その人にだけ、した
軽蔑

朗読で聴く
第一章 同じ席
エディス・レインは七十一歳になった。
町の図書館の読書会に、十九年通っている。
毎週木曜の午後二時から、一時間半。奥の読書室で、椅子を八つ円に並べる。
来る人は六人から八人。少ない日は五人になる。
エディスは、入って右から三番目に座る。
その席に決めた理由は無い。最初の日にそこが空いていて、それきり変えていない。
椅子は図書館の備品で、木の背もたれがある。背もたれの上のところが、手で握られて白くなっている。
並べるのはエディスの役ではないが、早く着いた日は並べる。八つを円にすると、部屋がちょうど埋まる。
窓は北向きで、午後でも明るくならない。天井の照明を点けたままにしている。
会は司会を置かない。読んできた本について、思いついた人から話す。
だから、順番は決まっていない。話したい人が話す。
エディスは、人が話し終わるまで待つ。
待って、誰も話さなくなってから話す。十九年、そうしている。
だから、話す順番はいつも最後になる。
最後になると、言おうと思っていたことの半分は誰かが言っている。残りの半分だけ言う。
それで足りる。足りないと思ったことは、ほとんど無い。
会の人たちは、エディスのことを、控えめな人だと思っていると思う。
控えめなのではなく、そういう順番でしか話せないだけだ。そのことは言っていない。
第二章 七十年
人の話は最後まで聞く。
母に教わった。子どものころ、口を挟むと、母が黙ってこちらを見た。それだけで分かった。
叱られた記憶は無い。ただ、見られた記憶がある。
それが七十年続いている。
途中で話したくなることは、いまでもある。相手の話の途中で、こちらの中に言葉が出来上がってしまう。
出来上がっても、口は開かない。開きかけて、閉じる。
閉じているあいだに、相手の話が進む。進むと、こちらの言葉は要らなくなることが多い。
要らなくなるので、言わない。
言わなかったものが、どれくらい溜まっているかは分からない。七十年ぶんある。
溜まっていて苦しい、ということはない。慣れているのだと思う。
慣れているものを、人は誇りとは呼ばない。ただ、そうしている、と言う。
言わないだけで、たぶん誇っている。
母は八十四で死んだ。最後の一年は口数が減って、こちらが話すのを聞いていた。
聞いているのか眠っているのか分からないことも多かったが、話し終わるまで目を開けていた。
あれも、最後まで聞いていたのだと思う。
思い出すのは、そういうところばかりだ。
第三章 あの人
会にノーマという人がいる。
六十代の後半で、七年前から来ている。
ノーマは、人の話にかぶせる。
誰かが話している途中で、そうそう、と言って自分の話を始める。悪気は無い。思いついたことをすぐ言う人なのだと思う。
言うことは面白い。読み方も丁寧で、こちらが気づかなかったところを見ている。
誰も困っていない。かぶせられた人も、そのまま笑って聞いている。
この会には司会がいないので、そういう形でも成立している。
エディスだけが、毎回、下げている。
ノーマが、そうそう、と言った瞬間に、こちらの中で一段下がる。
下がってから、いや、そういうことではない、と打ち消す。打ち消すが、下がったほうは戻らない。
七年ぶん下がったので、いまはずいぶん下にある。
ノーマとは普通に話す。帰りに一緒に歩くこともある。感じの悪い人ではない。
感じの悪いのは、たぶんこちらだ。
そのことは、誰にも言っていない。
夫にも言っていない。夫は会のことを聞かない。今日はどうだった、とも聞かない。
言おうとしたことは一度ある。夕飯のときに、会にね、と言いかけて、やめた。
やめたのは、続きを言うと、ノーマの話し方の説明から始めることになるからだ。
説明すれば、こちらがどういう人か分かってしまう。分からせる必要が無い。
第四章 二十三冊
司書のミス・ドーソンは数える人だ。
年の終わりに、今年は二十三冊読みました、と紙に書いて壁に貼る。
去年は二十一冊だった。その前は二十四冊。
ミス・ドーソンは冊数を数える。予算の報告に使うので、数えるのが仕事だ。
エディスは数えていない。
何回下げたかは数えていない。週に一度で七年だから、三百回は超えている。
数えれば出る。出るが、数えたことがない。
待った時間なら少し出る。一回の会で、話し出すまでに二十分は待っている。十九年で、かなりの時間になる。
その時間を、エディスは損だと思ったことがない。
待つのは苦ではないからだ。苦ではないので、待てる。
待てるということが、あの一段の理由なのだと思う。
自分が苦もなくできることを、できない人がいると、下がる。
それだけのことだ。それだけのことが、七年続いている。
ノーマができないのかどうかも、本当は分からない。
できないのではなく、しないだけかもしれない。待つ必要を感じていないだけかもしれない。
どちらなのかを、確かめたことがない。確かめる方法も思いつかない。
思いつかないまま、下げている。
根拠が無いまま下げているということも、分かっている。分かっていても、下がる。
第五章 十秒
去年の十月に、一度だけ、こちらが先に話した。
その日に読んだ本は、女性が一人で農場をやる話だった。
ノーマが、そうそう、と言いかけた。
言いかけたその瞬間に、エディスが、ええと、と言って、自分の話を始めた。
十秒くらいだ。話し終わって、そのままノーマに戻した。
ノーマは何も言わなかった。気づいていない。
ほかの人も気づいていない。あとで誰かに言われたこともない。
――誰も気づかなかった。
気づいたのはエディスだけだ。
家に帰る途中で、あれは何だったのか、と考えた。
考えて、分かった。
七十年で一度もしなかったことを、あの人にだけ、した。
あの人がいちばんよくやることを、あの人にだけ、やり返した。
やり返したつもりは無かった。手が先に動くように、口が先に出た。
分かってから、少し座っていた。
悔やんだかというと、そうでもない。悪いことをしたとも、あまり思わなかった。
ノーマは何も失っていない。十秒待っただけだ。ふだんノーマが人にさせていることと、同じだけ。
同じだけ、というのが、いちばん嫌なところだった。
嫌だと思ったが、それも一分ほどで薄れた。夕飯の支度をしているうちに、忘れていた。
忘れていたのに、いま書いているように覚えている。忘れたのではなく、しまっただけらしい。
エピローグ
今週も木曜に行った。
椅子を八つ並べて、右から三番目に座った。
ノーマが来て、隣ではない席に座って、本の話を始めた。
途中で、そうそう、と言った。
――そのとき、こちらの中で、また一段下がった。
去年のことを知っているのに、下がった。
知っていれば止まるだろうと、どこかで思っていたのだと思う。止まらなかった。
止まらないまま、最後まで聞いた。聞いて、誰も話さなくなってから話した。
いつもと同じだった。
来週も行くと思う。
行けば、また下がると思う。下がったあとで、いつもどおり最後に話すと思う。
その二つは、同じ一時間半の中に並んでいる。並んだまま、どちらも動かない。
あなたにも、見下しながら続けているものがありますか。
あなたの魂のテーマに気づく場所