二十分、早く終わった
軽蔑

朗読で聴く
第一章 畳み直す
永井久美は五十一歳になった。
駅前のクリーニング店で、仕上げを十九年やっている。
洗いと乾燥は別の工場でやる。この店に戻ってきたものを、プレスして、畳んで、袋に入れる。それが久美の仕事だ。
朝の九時から夕方の五時まで。土曜も出る。日曜と水曜が休みだ。
十九年、同じ時間に来て、同じ台に立っている。台の高さは久美に合わせて一度だけ切ってもらった。
プレス機の音は大きい。会話は自然と少なくなる。用があるときだけ声を出す。
四年前に、西野さんという人が入った。四十くらいの人で、週に四日、久美と同じ台に立つ。
西野さんの畳み方は、久美とは違う。
袖の折り返しが一回多い。そのぶん、たたんだ形が少し厚くなる。
それだけのことだ。
袋には入る。棚にも収まる。持って帰った人が広げれば、皺の位置が少し違うだけで、着られる。
苦情は一度も来ていない。四年で一度もない。
店長も何も言わない。たぶん気づいていない。
久美は毎日、出す前に畳み直している。
西野さんが畳んだものを、棚から出して、開いて、自分のやり方で畳み直して、また戻す。
一枚あたり二十秒ほどだ。多い日で四十枚くらいある。
棚は久美の背より高い。上の段のものは、踏み台に乗って出す。
踏み台に乗り降りする回数のほうが、畳む時間より長いこともある。
西野さんが帰ったあとにやることが多い。四時半を過ぎると、西野さんは袋詰めに回るので、棚の前があく。
空いたところに久美が入って、順番に出していく。
第二章 十九年
久美の畳み方も、店の決まりではない。
入ったときに教わったのは、袋に入る大きさにする、というだけだった。
最初の何年かで、手が形を覚えた。誰かに直されたわけではない。自分で、やりやすい順番に落ち着いた。
だから、久美のやり方が正しいということはない。
それは分かっている。分かっているが、直す。
直しているあいだ、手はほとんど考えていない。台に置いて、開いて、袖を戻して、二回で畳む。
考えているのは、そのあいだの別のことだ。夕飯とか、洗濯機の音とか。
それでも、開いた瞬間に、あ、と思う。
あ、と思ってから直すまでが速い。思っているというより、手が先に動く。
その「あ」が何なのかを、久美は言葉にしたことがない。
言葉にすれば、たぶん、そんなに良いものではない。
良いものではないと分かっているので、言葉にしない。
言葉にしないでいると、それは無かったことになるかというと、ならない。
毎日「あ」と思っているのだから、四年で千回は超えている。
千回ぶんが、どこかに溜まっているはずだ。溜まっている感じはしない。感じはしないが、無いとも思えない。
第三章 言わない
西野さんに言ったことは、一度もない。
言えば直ると思う。西野さんはそういう人だ。人の話を素直に聞く。
言わないのは、言う理由が無いからだ。
苦情は来ていない。困っている人はいない。直せと言うには、根拠が要る。
根拠が無いのに言えば、それはただ、自分のやり方を押しつけたことになる。
押しつけるほどのものではない、というのは、久美自身がいちばんよく分かっている。
だから言わない。言わないで、直す。
言わずに直すというのは、たぶん、言うよりよくない。
言えばその人と話すことになるが、直すだけなら話さずに済む。
済ませている。四年、済ませている。
西野さんとは普通に話す。天気の話も、孫の話もする。感じの悪い人ではない。
悪い人ではない人を、毎日一段下に置いている。
置いていることを、西野さんは知らない。
一度だけ、危なかったことがある。
去年の夏、西野さんが棚のほうを見て、あれ、これ私が畳んだのと違いますね、と言った。
久美は、そうですか、と答えた。
西野さんは、まあ誰か直したんでしょうね、と言って、それきりだった。
誰か、と言ったので、久美だとは思っていない。この店には三人しかいないのだが。
そのあと一週間くらい、久美は直す時間を少し遅らせた。西野さんが完全に帰ってからにした。
一週間で元に戻した。西野さんはもう気にしていなかった。
第四章 三百二十枚
店長は数える人だ。
夕方、伝票を見て、今日は三百二十枚でした、と言う。多い日だと四百を超える。
月末には、その月の合計を紙に書いて壁に貼る。
店長は枚数を数える。枚数は売上になるので、数えるのが仕事だ。
久美は数えていない。
直した枚数は数えていない。四年で何枚になるかは、掛け算をすれば出る。
一日四十枚として、週に四日、四年で八千枚を超える。
出るが、数えたことがない。
時間なら出る。一枚二十秒で四十枚だから、十三分。多い日は二十分。
その時間は、誰の伝票にも載らない。久美は残業をつけていない。
つけようと思ったこともない。つけたら、何をしていたかを書くことになる。
書ける言葉が無い。畳み直し、と書けば、なぜと聞かれる。
なぜと聞かれて答えられることが、ひとつも無い。
苦情が来ているわけでもない。時間がかかるだけで、店の得にはならない。
むしろ、久美の十三分は店にとって損だ。損になることを、四年やっている。
第五章 二十分
先月、西野さんが三日休んだ。
孫が熱を出したと聞いた。
その三日は、久美が全部やった。仕上げも、畳みも、袋詰めも一人だ。
枚数は変わらない。三百枚前後が来て、三百枚前後を出した。
一日めの夕方、五時十分に終わった。いつもは五時半になる。
二日めは五時七分だった。
――直す作業が無いと、二十分早く終わる。
その二十分で、久美は何もしなかった。
台を拭いて、あとは座っていた。座って、明日の分の袋を数えようかと思って、やめた。
三日めも同じだった。
西野さんが戻ってきた日、久美はまた直した。
その日は五時半だった。
早く終わった三日のことは、誰にも言っていない。西野さんにも、店長にも。
言うようなことでもない。三日早く終わっただけの話だ。
ただ、三日めの帰り道で、少しだけ考えた。
西野さんが辞めたら、毎日五時十分に終わる。
そう思ったことに気づいて、久美はそこで考えるのをやめた。
やめたが、思ったことは消えない。
思ったから悪い人だ、というふうにも思わない。思ったものは思ったので、それだけだ。
次の日には、もう普通に西野さんと天気の話をしていた。
エピローグ
今日も、四時半ごろから直しはじめた。
西野さんは隣の台で袋詰めをしている。こちらを見ていない。
久美は棚から出して、開いて、袖を戻して、二回で畳む。
開いた瞬間に、今日も、あ、と思った。
思ってから直すまでは、やはり速かった。
――この手つきは、十九年かけて覚えたものだ。
覚えたものを捨てれば、たぶん「あ」も消える。
消してもいいはずだが、消し方が分からない。分からないというより、消したくない。
消したくないのだから、これは続く。
西野さんは来年も来ると思う。孫の話をしていた。まだ小さいそうだ。
久美も来年はここにいる。棚の高さも、作業台の高さも変わらない。
変わらないので、明日も四時半に棚の前へ行く。
あなたにも、見下しながら続けているものがありますか。
あなたの魂のテーマに気づく場所