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どの音かは、分かる

懐かしさ

どの音かは、分かる

朗読で聴く

第一章 後ろの席

アイリーン・ウォードは六十七歳になった。

毎週日曜の朝、町の教会の集会室へ行く。

歩いて十二分だ。天気が悪い日は夫が車で送る。

部屋に入って、いちばん後ろの列の、右から二番目に座る。

その席に決めた理由は無い。五年前にそこへ座って、それきり変えていない。

前のほうは空いていることが多い。詰めて座るような集まりではない。

部屋の前に、アップライトのピアノがある。壁ぎわに置いてあって、蓋は開けたままだ。

アイリーンはそのピアノを四十二年弾いた。

始めたのは二十歳のときだ。前に弾いていた人が引っ越すことになって、ほかに弾く人が、いなかった。

うまくはなかった。譜面が読めて、両手が動く、というだけだった。

最初の一年は、家で練習してから来た。二年目からは、日曜の朝に譜面を開いて、そのまま弾いた。

讃美歌の伴奏で、月に三度か四度、多い月で五度。婚礼と葬式のときも弾いた。

いまはケイトという人が弾いている。三十代で、四年前に町へ来た。

ケイトのほうが上手い。それは比べるまでもない。指がよく回るし、教会で習ったのではなくて、ちゃんと学校で習っている。

アイリーンは後ろから聞いている。

部屋は横に長い。折りたたみの椅子が六列あって、前の二列はたいてい空いている。

窓は左側に三つ。日曜の朝は、そこから入る光が床に長く伸びる。

床は板で、椅子を動かすと少し鳴る。四十二年、その音を前から聞いていた。いまは後ろから聞いている。

同じ音のはずだが、同じには聞こえない。どこが違うのかは、うまく言えない。

第二章 四十二年

弾かなくなったのは五年前だ。

手の関節が固くなって、右の薬指と小指が思うところに行かなくなった。

痛いわけではない。動かないというより、遅れる。

医者は年齢だと言った。治るものではないが、悪くもならないでしょう、と言われた。

実際、五年たっても、その頃と同じくらいだ。

日常で困ることは、ほとんど無い。瓶の蓋が固いときに夫を呼ぶくらいだ。

字も書ける。編み物もする。編み物のほうが、ピアノより指を使わない。

ひこうと思えば、いまでも音は出せる。出せるが、間に合わない。讃美歌は、みんなが歌うので、待ってはくれない。

最後に弾いた日のことは覚えている。特別な日ではなかった。三月の日曜で、いつもの二曲を弾いた。

二曲めの途中で、二か所つかえた。前の月も同じところでつかえていた。

弾き終わって蓋を閉めて、そのときに、もういいな、と思った。

誰かに言われたわけではない。翌週、牧師に、しばらく休みますと言った。

牧師は、そうですか、と言って、無理をなさらずに、と言った。

しばらく、と言ったのは、そのときはそれが本当だったからだ。

半年たって、しばらくではないことが分かった。それでも誰かに言い直したりはしなかった。

言い直す場面が来なかった、というほうが近い。

第三章 艶

鍵盤の白いところは、よく使う音だけ艶が消えている。

消えているのは、真ん中より少し左の、指ふたつぶんくらいの幅だ。

そこだけ白ではなく、うすい黄色になっている。表面がざらついていて、光が乗らない。

その両側の鍵盤は、まだ艶がある。角度によっては、細く光が走る。

四十二年ぶんだ。

讃美歌は調が限られているので、使う鍵盤が偏る。アイリーンが弾いていた曲は、ほとんどそこに集まっていた。

だから、艶の消えているところを見れば、どの音を弾いていたかが分かる。

分かるのはアイリーンだけだと思う。

ケイトは違う曲を弾く。前奏に使う曲も、季節の曲も、アイリーンのときとは別のものだ。

ケイトの指は、もっと広いところを使う。右のほうも、いちばん左のほうも使う。

その鍵盤は、まだ艶がある。

五年では消えない。四十二年かけて、あの幅になった。

ケイトが四十二年弾けば、そのときには別のところが消えているのだろうと思う。

思うが、アイリーンはそれを見ないと思う。

艶の消えかたには、うすい濃淡がある。真ん中がいちばん白くなくて、両側へ行くほど薄れていく。

いちばん濃いところは、たぶん、いちばん多く弾いた音だ。

どの音かはアイリーンには分かるが、その名前をここに書いても仕方がない。

弾いていた本人にしか、その一本は見分けられない。

第四章 二十八回目

調律師は数える人だ。

半年に一度来る。ホランドさんという人で、アイリーンが弾いていたころから同じ人だ。

去年の秋に来たとき、廊下で会って、少し話した。

これで二十八回目です、とホランドさんが言った。

二十八回。半年に一度なので、十四年になる。

アイリーンは、そんなになりますか、と答えた。

ホランドさんは回数を数えている。手帳につけているらしい。どのピアノを何回見たか、全部書いてあるそうだ。

アイリーンは数えていない。

四十二年、というのは知っている。始めた年と、やめた年を引き算しただけだ。

何曲弾いたかは分からない。数えれば出るのだろうが、数え方が思いつかない。

弾いた回数なら出る。月に四度として、四十二年で二千回を超える。

出るが、数えたことがない。

ホランドさんは、あのピアノは長持ちしますよ、とも言った。よく弾かれているものは狂いにくい、という意味らしい。

アイリーンは、それはよかった、と言った。

第五章 なんで白くないんでしょうね

今年の春に、ケイトと二人で部屋に残ったことがある。

片づけのあとで、ケイトが鍵盤を布で拭いていた。

拭きながら、ケイトが言った。

ここ、なんで白くないんでしょうね。

指で、艶の消えたところをなぞっていた。

――ケイトは、そこに何かがあることに気づいている。

気づいているが、それが何かは知らない。

アイリーンは、古いからでしょう、と答えた。

ケイトは、そうですよね、と言って、拭き終わって蓋を閉めた。

嘘は言っていない。古いのは本当だ。

それ以上のことを言おうとすると、四十二年の話から始めることになる。

始めると長い。長いわりに、着くところが無い。

ケイトは何も悪くない。悪くない人に、自分の四十二年を渡すのは、渡すほうの都合だと思った。

思ったというより、そこで話が終わった。

アイリーンは触らなかった。五年、あの鍵盤に手を置いたことがない。

置きたいと思ったこともない。置いても音は出せる。出せるが、出したところで、いまの指の音が出るだけだ。

四十二年ぶんの音は、あの鍵盤の表面のほうに残っている。手のほうには残っていない。

残っているものをさわりに行くと、たぶん、いま残っていないほうが分かる。

だから触らない。そう決めたわけではなく、五年、そうなっている。

エピローグ

今週の日曜も、後ろの列の右から二番目に座った。

ケイトが前奏を弾いた。知らない曲だった。きれいな曲だった。

弾いているあいだ、アイリーンは鍵盤のほうを見ていた。

ここからだと、鍵盤の一本一本までは見えない。

見えないが、どのあたりが白くないかは分かる。

――どの音かは、分かる。

終わって、みんなが立ち上がった。アイリーンも立った。

帰り道で、ケイトの弾いた曲を思い出そうとして、思い出せなかった。

思い出せないまま、来週もそこへ行く。

あなたにも、もう無いのに毎日そこへ行くものがありますか。

ソウルミッション358

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