聞けと、言われました
引き受けたことになっている

朗読で聴く
第一章 脇に立つ
岡部正樹は四十七歳になった。
金属加工の工場に二十五年いる。四十人ほどの会社で、正樹は現場にいる。
毎年四月に新人が入る。多い年で三人、いない年もある。
入った新人は、なぜか正樹のところへ来る。
来るというのは、作業台の脇に立つということだ。作業台の左側に、人ひとりぶんの幅が空いている。そこに立って、こちらが手を止めるのを待っている。
正樹は手を止めて、聞かれたことに答える。長いときで五分、たいていは一分もかからない。
答え終わると、新人は自分の持ち場に戻る。正樹も続きをやる。
その脇の場所は、床の塗装が剥げている。正樹が立つ側ではなく、立たれる側のほうが剥げている。
いつからそうなったのかは分からない。気がついたときには剥げていた。
正樹は教育係ではない。そういう役は、この会社に無い。
新人には指導係が付く。班ごとに決まっていて、名前も紙に出る。正樹の名前は、そこに出たことがない。
指導係は毎年替わる。若い班長が順番にやることになっていて、二年か三年で次に回る。
だから新人には、紙に出ている人と、脇に立ちに来る先がある。二つは別で、そのことを誰も変だと言わない。
正樹も変だと思っていない。聞かれたら答える、というだけのことで、それ以上の形になったことがない。
答えているあいだ、自分の手は止まっている。その分は残業でもなんでもなく、ただ止まっている。
止まっている時間を足したことはない。足せば出るのだろうが、足したことがない。
第二章 最初の一人
最初の一人は、正樹が二十二のときだった。
入って三年目で、たまたま隣の台が空いていて、そこに新人が入った。矢島という男だった。
矢島は分からないことがあると隣を見た。矢島の隣は正樹だったので、矢島は正樹に聞いた。
正樹は答えた。答えられることだけ答えて、分からないことは分からないと言った。
それだけのことだ。特別に親切にしたつもりはない。
矢島は五年いて、辞めた。いまどこにいるかは知らない。
次の年に入った新人も、正樹のところへ来た。台は隣ではなかった。
なぜ来たのかは、聞いていない。誰かが言ったのかもしれないし、矢島が言ったのかもしれない。
その次の年も来た。そのあたりから、来るのが普通になった。
どこで普通になったのかは分からない。二人めのときはまだ偶然だったと思う。三人めのときには、もうそうなっていた気がする。
境目が無い。
はっきりした日があれば、その日のことを覚えていられる。断ることもできる。
そういう日が無かったので、断る相手も、断る文句も出てこなかった。
いつからかを思い出そうとしたことは、何度かある。思い出そうとするたびに、矢島の顔まで戻って、そこで止まる。
矢島のときは、まだ役ではなかった。隣にいただけだ。それは確かだ。
確かなのはそこまでで、その先はぼやけている。
第三章 断った
十年ほど前に、当時の課長から声をかけられた。
教育係、正式にやるか、と言われた。
手当が少し付いて、名前が紙に出るという話だった。
正樹は断った。
そういう話ではないので、と言った。言ってから、自分でもうまく説明できていないと思った。
課長は、そうか、と言って、それきりその話はしなかった。
断った理由を、正樹はいまでもうまく言えない。
面倒だったわけではない。手当が少なかったからでもない。名前が出るのが嫌だったのかもしれないが、それも違う気がする。
いちばん近いのは、正式にやると、いまやっていることとは別のものになる、という感じだった。
いまやっていることには名前が無い。名前が付くと、それは付いたもののほうになる。
断って、次の四月が来た。
新人は来た。前の年と同じように、脇に立った。
断ったのに、来る人は減らなかった。
当たり前だ。断ったのは課長に対してで、新人はその話を知らない。
紙に名前が出ないことと、脇に立たれることは、最初から関係が無かった。
関係が無いものを断っても、何も減らない。断ったあとで、正樹はそのことに気づいた。
その課長は三年前に定年で辞めた。送別の席で、教育係の話は出なかった。正樹も出さなかった。
いまの課長は、正樹より若い。正樹が教えた年代ではないが、それに近い。
第四章 六人
人事の人は数える人だ。
四月の朝礼で、今年は六人採りました、と言う。去年は四人でした、というところまで言う。
正樹は数えていない。何人に教えたかを聞かれたら、指を折って数えることになるが、聞かれたことがない。
一度、同じ班の男に、もう何人めですか、と聞かれたことがある。
正樹は、さあ、と答えた。本当に分からなかった。
その男は笑って、それきりだった。
数えないのは、区切りが無いからだと思う。一人めが終わって二人めが始まる、というふうにはなっていない。
去年の新人がまだ聞きに来ているうちに、今年の新人が立つ。両方が並んで立っていることもある。
人事の人の数は毎年きれいに切れるが、正樹のほうは切れない。
辞めた人のぶんも、数からは消えるが、正樹のほうからは消えない。矢島のことをいまでも覚えているのは、数えていないからだと思う。
数えていれば、辞めた人は引き算になる。引き算にならないので、増えも減りもしないまま、全部そこにある。
第五章 その人も
去年入った新人が、最初に来た日に、こう言った。
岡部さんに聞けと言われました。
正樹は、はい、と言って、聞かれたことに答えた。
答えてから、少しあとで、誰に言われたのかを聞いた。
新人が出したのは、正樹が十年前に教えた男の名前だった。
いまは別の班の班長をしている。その男も、入った年に正樹の脇に立っていた。
――こちらが教えた人が、いまはこちらへ人を送っている。
正樹はそれを聞いて、変だとは思わなかった。ありがたいとも思わなかった。
ただ、そうなっているのか、と思った。
いつからそうなっているのかは、やはり分からない。その男が班長になった年からかもしれないし、もっと前からかもしれない。
その男に、なぜそう言ったのかを聞いたことはない。次に顔を合わせても、たぶん聞かない。
聞けば、その男も同じことを言うと思う。いつからそう言うようになったかは分からない、と。
聞けば分かる、というのも、たぶん違う。聞いても、分かるのは言った日ではなく、言うようになっていたということだけだ。
聞けば分かる。聞いていない。
エピローグ
今年も四月に、二人入った。
一人は先週から脇に立つようになった。もう一人はまだ来ない。そのうち来ると思う。
今日は一度だけ来た。締めの力の話で、二分ほどで終わった。
戻っていくのを見て、正樹はまた手を動かした。動かしてから、いま何を聞かれたかを、もう半分忘れていた。
覚えていなくても困らない。次に聞かれたら、また答える。
――床の剥げは、少しずつ広がっている。
広がるほうを、正樹は削ったことも塗ったこともない。剥げていることに気づいたのがいつなのかも、覚えていない。
来年も、たぶん誰かが立つ。
あなたにも、引き受けた覚えのないまま続いているものがありますか。
あなたの魂のテーマに気づく場所