全部、こちらの字になった
日本・現代。五十六歳の高橋昭夫は、十一年、町内会の名簿係をしている。前の人が引っ越す集まりの日に、誰かが「じゃあ次は高橋さんで」と言った。昭夫は、はい、とも言わなかった。それでも次の月から名簿が回ってきた。断る場面が来ないまま十一年たち、名簿の字は全部一之のものになった。前の人の字は、もう一枚も残っていない。

朗読で聴く
第一章 毎月一日
高橋昭夫は五十六歳になった。
十一年、町内会の名簿係をしている。
やることは決まっている。毎月一日に、回ってきた紙を見て、変わったところを名簿に書き直す。
転入、転出、世帯主の変更。それだけだ。多い月で三件、無い月もある。
書き直したら、一部を会長の家に届けて、控えを自分の机にしまう。
全部で三十分もかからない。無い月は、変わりありません、とだけ書いて届ける。
名簿は紙のままだ。誰かがそのうち電子化しましょうと言ったことがあるが、それきり出ていない。
机は寝室の隅にある。ほかのことには使っていない。
鉛筆は決まったものを使う。芯の硬さも十一年変えていない。消しゴムは同じ銘柄を買い足している。
名簿は一世帯に一枚で、順番は道順になっている。町内をぐるりと回る順で綴じてあって、これは昭夫が来る前からそうだった。
この順にした理由を、昭夫は知らない。配るときに歩く順と同じなので、たぶんそのためだろうと思っている。思っているだけで、確かめたことはない。
新しく入った家は、その道順の位置に差し込む。差し込むと前後の紙が少しずれるので、下の穴を開け直すことがある。
穴あけは会長の家にあるものを借りていたが、五年目に自分で買った。買ったことは誰にも言っていない。
書き終わって顔を上げると、外が少し暗くなっていることがある。それだけの作業に、そんなに時間はかかっていないはずなのだが。
第二章 その日
十一年前の三月に、町内会の集まりがあった。
年に一度、役員を決める集まりで、昭夫はその年たまたま出ていた。前の年は出ていない。
場所は集会所で、椅子を並べて二十人ほど座っていた。昭夫は後ろから二列目にいた。
名簿係をしていた森さんが、四月に引っ越すことになっていた。
森さんは七十くらいの人で、昭夫はほとんど話したことがなかった。回覧を渡すときに顔を見る程度で、名前を知っているという以上のことは無かった。
誰かが、じゃあ次は高橋さんで、と言った。
昭夫は、はい、とは言わなかった。何も言わなかった。
場が次の話に移って、そのまま終わった。
誰が言ったのかを、昭夫は覚えていない。声は覚えている気がするが、顔と結びつかない。十一年考えていない。
帰りぎわに、森さんが昭夫のところへ来た。
ありがとう、助かった、と言った。
昭夫はまだ何もしていなかった。それでも、いえ、と言った。
森さんは四月に引っ越して、それきり会っていない。
四月の終わりに、回覧の紙といっしょに名簿の控えが届いた。
封筒に、森さんの字で、よろしくお願いしますと書いてあった。それだけで、引き継ぎのようなものは無かった。
昭夫は中を見て、書き方が分かったので、そのまま同じように書いた。分からないところは無かった。
分からないところが無かったので、誰にも聞かなかった。聞かなかったので、始まったことに誰も気づかなかったと思う。
第三章 断る場面
断ろうと思ったことは、ある。
最初の年に二度、三年目に一度。どれも、言う場面が来なかった。
集まりは年に一度で、役員の話はいちばん最初に出る。出るときには、もう次の年の割り振りが紙になっている。
紙には、名簿係のところに高橋と書いてある。書いたのは会長で、去年もそうだったからそう書いた、というだけのことだ。
紙が出てしまうと、そこで言うのは、その紙を作った人に言うことになる。
五年目に一度、言おうとした。手を挙げる前に、会計の話が長引いて、そのまま閉会になった。
次の年に持ち越そうと思って、次の年には忘れていた。
忘れていたというより、その日になると、そういう話をする集まりではないような気がしてくる。みんな早く終わらせたがっているし、実際すぐ終わる。
終わってから、そういえば言うつもりだった、と思い出す。思い出すのは帰り道で、そこから一年が空く。
断りたい理由も、はっきりとは無い。
忙しいわけではない。体がきついわけでもない。誰かに代わってほしいと思う相手がいるわけでもない。
理由を言えないまま断るのは、感じが悪い。感じが悪いことをするほどのことでもない。
嫌なわけではない。三十分の作業で、月に一度だ。困ってもいない。
ただ、引き受けた覚えが無い。
覚えが無いまま、十一年続いている。
第四章 八十四世帯
会長は数える人だ。
集まりのたびに、今年は八十四世帯です、と言う。去年より二つ減りました、というところまで言う。
会長は三年で交代するので、昭夫はもう四人めの会長を見ている。四人とも数を言った。数を言うのが会長の仕事なのだと思う。
昭夫は数えていない。名簿を書いているので、数えれば一分で分かる。分かるが、数えたことがない。
書いているのは名前で、数ではない。書き直すときも、増えた減ったではなく、そこがこう変わった、というふうにしか見ていない。
一度、会長に、何世帯ですかと聞かれたことがある。昭夫は名簿を開いて、その場で数えた。
数えているあいだ、会長は待っていた。待たせているのが少し気まずかった。
いまの会長とは、年に何度か立ち話をする。名簿の話は出ない。届けるときも郵便受けに入れるだけなので、顔を合わせないことのほうが多い。
会長のほうも、昭夫が名簿係だということは知っているが、いつからかは知らないと思う。三年で交代するので、四人とも、前からそうだった、というところから始めている。
第五章 字
去年の暮れに、控えの束を整理した。
十一年ぶんが机の引き出しに入っている。年に一冊で、十一冊ある。
いちばん下から順に開いた。
一年目の最初のページに、森さんの字が残っていた。転出の欄が二つ、森さんの書き方で埋まっている。
その次のページから、昭夫の字になっていた。
そこから十一年、全部昭夫の字だ。
――前の人の字は、もう一枚も残っていない。
字が変わったところは、一年目の二ページ目にある。そこだけが継ぎ目で、あとは十一年ぶんが同じ字で続いている。
昭夫はそれを見て、少し座っていた。
自分が引き受けたと思ったことは一度もないのに、紙のほうはとっくに全部こちらのものになっている。
悪い気はしなかった。いい気もしなかった。
束を戻して、引き出しを閉めた。閉めるときに、いちばんうえの一冊だけ、かどが少しめくれているのが見えた。
エピローグ
今月も一日に、回覧が来た。
転出が一件あった。名簿を開いて、古いところを消して、新しく書いた。
控えを机にしまって、一部を会長の家へ持っていった。
留守だったので、郵便受けに入れて帰った。帰りに、道順のとおりに歩いた。名簿がその順なので、歩くほうがそれに合ってしまう。
――来月も、たぶん同じように来る。
来なくなる日があるとすれば、それは昭夫が引っ越すか、誰かが紙に別の名前を書いたときだ。
どちらも、まだ起きていない。
あなたにも、引き受けた覚えのないまま続いているものがありますか。
あなたの魂のテーマに気づく場所