あなたの魂のテーマを探す に戻る

昼までしか、行かない

選ばなかったほう

昼までしか、行かない

朗読で聴く

第一章 六分

デイル・モローは七十三歳になった。

アメリカの、小さな町に住んでいる。妻は五年前に亡くなって、いまは一人だ。

毎朝、起きるとコーヒーを淹れる。豆を挽いて、湯を沸かして、紙のフィルターに落とす。

落ちきるまでに六分かかる。前は五分だったが、器具を替えてから六分になった。

その六分のあいだ、デイルは頭の中で、行かなかったほうの一日を通す。

三十年前に断った話がある。断らずに行っていたら、こういう一日になっていた、というものを、最初から順に通していく。

起きる時刻から始める。それから顔を洗って、何を食べて、どの道を通って、着いてから最初に何をするか。

順番は決まっている。三十年、変えたことがない。

思い出しているのではない。起きなかったことなので、思い出すものがない。

毎朝、同じところから始めて、同じように進める。それだけだ。

コーヒーが落ちきると、そこで終わる。続きは翌朝、また最初から始める。

妻のジューンには、話したことがある。結婚して十年ほどたったころで、そのときはまだ、ときどきやる、という程度だった。

ジューンは、面白いね、とだけ言った。困った顔も、心配した顔もしなかった。

それきり話に出なかった。ジューンが亡くなってからも、六分は同じように続いている。

いま話す相手はいない。話すようなことでもない。

第二章 断った日

三十年前、デイルは四十三歳だった。

兄のハワードから電話が来た。別の州の町で、自動車の整備工場が売りに出ている。二人でやらないか、という話だった。

ハワードは四十七歳で、その手のことを長くやっていた。デイルは工具の卸の会社に勤めていた。

二週間考えた。紙に書き出すようなことはしなかった。仕事に行って、帰って、飯を食べて、そのあいだずっと頭の隅にあった。

行かない理由は、いくつもあった。子どもが二人いた。家のローンが残っていた。その州には知り合いが一人もいなかった。勤め先での立場も、悪くはなかった。

どれも本当だった。いまでも本当だったと思う。

二週間目に、デイルは電話をかけた。

おれは行かない、と言った。

ハワードは、わかった、と言った。それから天気の話を少しして、切った。

止められなかった。理由も聞かれなかった。

ハワードは一人でその工場を買った。

五年でたたんだ。何があったのかを、デイルはくわしく聞いていない。そのあとハワードは別の州に移って、別の仕事をして、十年前に死んだ。

その町へは、デイルは一度も行っていない。工場も、いまは誰の何になっているのか知らない。

場所も、建物も、聞ける相手も、もう無い。

写真の一枚も無い。ハワードは工場の写真を撮る人ではなかった。トビーが持っている書類にも、絵は付いていない。

だからデイルが頭の中で見ている工場は、実物を一度も見ないまま組み立てたものだ。三十年、そこを直したことはない。

第三章 昼までしか

六分では、一日は終わらない。

だいたい、昼飯のあたりで切れる。工場の裏で昼を食べて、午後の最初の車が入ってくる、そのくらいで、コーヒーが落ちきる。

三十年、午後まで行ったことがない。

飛ばせば行ける。朝を短くして、途中を省けば、夕方まで届く。

やったことはない。やろうと思ったこともない。

順番を変えないのは、決めているからではなく、変えるという考えが出てこないからだ。

毎朝、同じところから始める。同じ道を通って、同じ順で工場に入る。

そして、同じくらいのところで切れる。

切れたところから続けたことも、一度もない。翌朝はまた最初からになる。

コーヒーが落ちるのが遅い日は、少し先まで行く。豆が新しいと落ちが速くて、その日は手前で切れる。

だから日によって、着く場所が二十分ぶんくらい違う。それでも午後には入らない。

器具を替えて五分から六分になったとき、一分ぶん先まで行けるようになった。デイルはそのことに、しばらくしてから気づいた。

第四章 五年と三か月

甥のトビーが、年に二度ほど寄る。ハワードの息子で、五十を過ぎた。

トビーは父の書類を全部持っていて、細かいことをよく覚えている。

この前来たとき、工場の話が少し出た。トビーは、あそこは五年と三か月だった、と言った。

開けた日と、閉めた日を、日にちまで言った。書類にそう書いてあるらしい。

デイルは年数を数えていない。ハワードが死んで何年になるかも、言われれば計算する。

デイルが数えているのは、六分だけだ。それも数えているというより、決まっているだけだ。

帰りぎわに、トビーが言った。叔父さんも一緒にやるはずだったんですよね。

デイルは、そういう話もあった、と言った。

トビーは、そうですか、と言って、それ以上は聞かなかった。

あとで、デイルはその言い方を少し考えた。はずだった、とトビーは言った。

ハワードがトビーにそう話していたのか、書類のどこかにそう読めるものがあるのか、それともトビーがそう思っただけなのか。

聞けば分かる。聞かなかった。次に来たときも、たぶん聞かない。

第五章 どう終わるか

去年の冬に、デイルは一つのことに気づいた。

三十年、あの一日を通してきて、その一日がどう終わるのかを、一度も考えたことがない。

うまくいったのか、続いたのか、ハワードとうまくやれたのか、いくら稼いだのか。

考えていないのではない。考えようとしたことがない。

通しているのは、一日の形だ。起きる、食べる、通る、入る、始める。それだけを順に置いている。

――どうなったかではなく、どうしていたかを通している。

だから比べようがない。いまの三十年と、あちらの三十年を並べたことはない。並べるためには、あちらがどうなったかが要るが、それが無い。

無いままでいいのだと思う。

あればたぶん、どちらかが良かったことになる。良かったことになったら、毎朝通せなくなる。

いまの三十年を悪いと思ったことはない。子どもは二人とも育って、家のローンも終わった。ジューンとは長かった。

だからこれは、取り返すための話ではない。取り返すものが、そもそも見えていない。

見えていないものを、毎朝六分、順番に通している。

エピローグ

今朝も六分あった。

起きて、顔を洗って、パンを一枚食べて、道に出て、橋を渡って、工場の前に着いた。

鍵を開けて、シャッターを上げて、油の匂いのする中に入って、上着をかけた。

そこまで来たところで、コーヒーが落ちきった。

昼にも届かなかった。いつもより少し手前だった。豆が新しかったからだと思う。

デイルはポットを持って、台所の椅子に座った。

――続きは、明日の朝また最初からになる。

最初から始めるので、いつも同じところばかり通ることになる。三十年、朝の道だけを何千回も通った。

その先は、まだ一度も見ていない。

あなたにも、選ばなかったほうを毎日確かめているものがありますか。

ソウルミッション358

あなたの魂のテーマに気づく場所