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倒れたら、立てる

選ばなかったほう

倒れたら、立てる

朗読で聴く

第一章 隅の一本

高梨美和は四十八歳になった。

家の玄関の隅に、丸めた紙が一本立ててある。傘立ての横で、壁に寄りかかっている。

長さは一メートルほど。細い輪ゴムが二本かかっていて、片方はもう伸びきっている。

立ててあるだけなので、よく倒れる。

いちばん倒れるのは掃除機をかけるときだ。ノズルが当たると、こつん、と音がして、壁づたいに滑って横になる。

美和はそれを立てる。掃除機を持ったまま、片手で拾って、元の位置に戻す。

三秒もかからない。戻してから、また掃除機の続きをする。

週に二度か三度、そういうことがある。それが十四年続いている。

誰かに頼まれて置いているわけではない。捨てるなと言われたこともない。

置き場所を変えたこともない。玄関のその隅は、ほかに何も置いていない。

紙は少し茶色くなった。上のほうの端がめくれて、丸まりがゆるんでいる。輪ゴムをかけ直すたびに、少しずつ太くなっている気がする。

夏は湿気で柔らかくなり、冬は硬くなる。硬い時期のほうが、倒れたときの音が高い。

美和はその音で、来客か何かではないと分かる。分かるので、慌てて出ていくことはない。

第二章 店

十四年前、美和と夫の和彦は、店をやるつもりでいた。

喫茶店だった。和彦が三十六歳のときで、勤めながら三年ほど準備をしていた。

場所も決まっていた。駅から歩いて八分の、一階の細長い物件。前は文具屋が入っていた。

和彦は看板の下書きを自分で描いた。模造紙に鉛筆で、実物と同じ大きさで。

夜、居間の床に紙を広げて、二日かけて描いていた。美和は横で見ていた。

契約の一週間前に、やめた。

やめようと言ったのは、美和のほうだった。

理由はあった。結衣が小学校に上がる年だった。和彦の会社で、断りにくい異動の話が出ていた。美和の母の具合もよくなかった。貯めた額は、思っていたより百万ほど足りなかった。

どれも本当のことだ。並べれば、やめる説明にはなる。

ただ、いま並べてみると、そのどれもが、三年準備したものをやめるほどのことだったかどうか分からない。

当時は分かっていた。いまは分からない。分からなくなったのがいつなのかも分からない。

いまはやめておこう、と言った。和彦は少し黙って、そうだな、と言った。

それだけだった。言い合いにはならなかった。

和彦はその日以来、店の話を一度もしていない。十四年、一度も。

美和も出していない。出さないのは、和彦が出さないからだ。

和彦がいまの仕事を嫌がっているわけではない。休みの日はよく寝ているし、機嫌もふつうだ。喫茶店に入っても、店の作りを見るようなことはしない。

だから美和は、和彦のほうも済んでいるのだと思っている。思っているが、確かめたことはない。

確かめるには、その話を出さなければならない。出せば、十四年出さなかったことのほうが問題になる。

第三章 開けない

あの日、和彦は広げてあった紙を丸めて、輪ゴムをかけて、玄関の隅に置いた。

捨てるとも、取っておくとも言わなかった。置いただけだった。

美和もその日は何も言わなかった。

次の朝、掃除をしていて、それが倒れた。美和は立てた。それが最初だった。

十四年、中を見ていない。広げたことは一度もない。

何が描いてあったかは、覚えていない。屋号は覚えている。字の形も、色を塗ってあったかどうかも、思い出せない。

二日かけて見ていたはずなのに、出てこない。

和彦が描いているあいだ、美和は横で茶を飲んでいた。鉛筆の音は覚えている。定規を当てて線を引くときに、和彦が少し息を止めるのも覚えている。

覚えているのはそういうことばかりで、肝心の絵のほうが無い。

開けて見れば、たぶんすぐ思い出す。開けたことはない。

八年前に一度、家を建て替えるので仮住まいに移った。荷物をまとめに来た人が、その筒を持ち上げて、これは、と聞いた。

美和は、それは置いといてください、と言った。

その人は、はい、と言って、床に戻して、次の箱に移った。

それだけのやりとりだった。仮住まいにも持っていって、戻ってきてからも、同じ隅に立てた。

第四章 数える娘

娘の結衣は二十一になって、家を出ている。月に一度くらい帰ってくる。

去年から片づけに凝っていて、帰ってくると家の中の物を数える。

この前は、玄関に要らない物が六つある、と言った。壊れた傘、片方だけの手袋、古い虫よけ、それから筒。

結衣は数えるのが好きで、数を言うときは楽しそうだ。悪気はない。

美和は数えていない。玄関に何があるかは分かっているが、数えたことはない。

結衣が、あれ、開けてみればいいのに、と言った。

美和は、そうね、と言った。

開けない理由を、美和は言えなかった。言えなかったので、言わなかった。

結衣はそれ以上聞かずに、次の部屋を数えに行った。

結衣は、あの筒が何なのかを知らない。七歳のときのことなので、覚えていない。

教えたことはない。聞かれたこともない。玄関に前からあるもの、という以上の意味を、結衣は持っていない。

それでいいと美和は思っている。意味を持っているのは、この家で二人だけだ。二人とも、そのことを口に出さない。

第五章 掃除機

倒しているのは、掃除機だ。

あの隅は、掃除機のノズルがちょうど当たる高さと角度にある。だから当たる。当たると倒れる。

避けて掛ければ倒れない。二十センチ離せば、当たらない。

美和は避けていない。十四年、一度も避けていない。

――倒れているのではなく、こちらが倒している。

気づいたのは、去年の秋だった。掃除機をかけていて、いつものように筒が倒れて、拾って、立てて、それから手が止まった。

自分で倒して、自分で立てている。

美和はそれを、変なことだとは思わなかった。おかしいとも、やめようとも思わなかった。

ただ、そういうことなのか、と思った。

毎日ちゃんと見ているわけではない。目の端にあるだけで、意識して見ることは月に何度もない。

それでも、週に二度か三度、手が触れる。触れて、起こす。十四年ぶんで、千回は越えている。

千回越えて、まだ一度も開けていない。

その日も、そのあとも、掃除機は同じところを通っている。

エピローグ

今朝も掃除機をかけた。

玄関のところで、こつん、と鳴った。筒が壁を滑って、たたきに横になった。

美和は拾って、壁に寄せて、輪ゴムの位置を少し直した。

伸びきっているほうの輪ゴムは、そろそろ切れると思う。切れたら替える。替えるものは台所の引き出しにある。

これまでに何度替えたかは、数えていない。四回か五回だと思う。替えるときも、紙は広げない。輪ゴムだけを外して、すぐ新しいのをかける。

――なかを見なくても、そこにあることは分かる。

分かっているだけで、それ以上のことは何も起きない。十四年、一度も起きていない。

起きなくていいのだと思う。起きてしまったら、たぶん立てなくなる。

あなたにも、選ばなかったほうを毎日確かめているものがありますか。

ソウルミッション358

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