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三秒だけ、見える

選ばなかったほう

三秒だけ、見える

朗読で聴く

第一章 三秒

宮原和之は五十一歳になった。

二十二年、同じ会社に勤めている。総務にいる。

通勤は電車で三十分ほどで、途中に高架の区間がある。その高架を渡りきる少し手前で、右の窓の外に、白い建物が見える。

見えているのは三秒くらいだ。数えたことはないが、だいたいそのくらいだと思う。

その建物には、二十二年前に和之が断った会社が入っている。

毎朝、同じ車両の同じあたりに立っている。決めたわけではなく、乗る扉が決まっているので、自然とそこになる。

混んでいる日は窓の前に人が入って、見えないこともある。見えない日は、見えないまま通り過ぎる。それで何かが足りないとは思わない。

座れる日は少し見え方が違う。座ると角度が下がって、建物の上のほうしか入らない。

冬の朝はガラスが曇る。曇ると白い建物は白いままにじんで、輪郭だけになる。

見ないようにはしていない。見る。

見ようと決めているわけでもない。高架にかかると、顔のほうが先に右を向いている。

三秒で通り過ぎて、それで終わる。降りるまでのあいだに、そのことを思い返すことはない。

二十二年やっているが、途切れた時期もある。子どもが小さいころ、二年ほど別の路線で通っていた。そのあいだは見ていない。

路線が戻ったとき、和之はまた見た。二年ぶりだったが、探すまでもなく顔が右を向いた。

そのときも、久しぶりだ、とは思わなかった。前の日の続きのようだった。

第二章 断った日

二十二年前の二月に、二つの会社から続けて連絡が来た。

一方はいまの勤め先で、もう一方があの建物の会社だった。

迷った。迷ったことは覚えている。

当時は二十九歳で、前の会社を辞めたあとだった。決めるのが遅れると両方だめになる、という程度のことは分かっていた。

一週間、家で考えた。紙に書き出したりもした。書き出した紙は残っていない。

それから電話をかけた。断るほうへかけるのは、そのころの和之には難しかった。かける前に、言うことを口の中で二回さらった。

出たのは人事の女の人で、和之が名乗って、辞退したいと言うと、わかりました、とだけ言った。

理由は聞かれなかった。

和之は理由を用意していた。用意していたものを言う場面が来ないまま、電話が終わった。

切ったあと、和之が何を思ったかは、覚えていない。

ほっとしたのか、まずかったと思ったのか、どちらでもなかったのか。二十二年たって、そこだけが白い。

覚えているのは、受話器を置いたあとに台所へ行って、水を飲んだことだけだ。

その二週間後に、いまの会社に入った。入ってしまえば毎日があって、断ったほうのことを考える時間は無かった。

建物に気づいたのは、入って半年ほどたってからだ。通勤の途中にあることは知らずに通っていた。ある朝、窓の外にその名前の入った建物が見えて、それが初めてだった。

いまは名前の入った看板は掛かっていない。会社が中で移ったのか、掛け替えたのかは知らない。それでも和之は、そこがそこだと分かっている。

第三章 うまく言えない

なぜいまの会社にしたのかを、和之はうまく説明できない。

言えることはある。家から近かった。給料が少し高かった。面接で会った人が感じがよかった。

どれも本当だが、どれも、一週間迷うほどのことではない。並べてみると、決め手がどこにも無い。

いまの勤めを悪いと思ったことはない。二十二年、大きな不満は無かった。総務の仕事は性に合っている。

結婚してすぐのころ、妻の典子に、その話をしたことがある。もう一つ受かっていた、と。

典子は、そうなんだ、と言って、どっちがよかったと思う、と聞いた。

和之は、分からない、と答えた。答えてから、それが本当だと自分で思った。

典子はそれ以上聞かなかった。その話はそれきり出ていない。

もう一方を選んでいたらどうだったか、という考え方も、しない。

しないというより、そこは考えられない。あちらの二十二年は、どこにも無いからだ。

あるのは建物だけだ。中で何が起きているかは知らない。何をしている会社なのかも、あのころ聞いた説明しか知らない。

調べれば分かる。調べたことはない。調べようと思ったこともない。

知りたいのではないからだと思う。ただ、そこにあることだけが要る。

第四章 数えている人

同期の田島とは、年に何度か飲む。駅の裏の、いつも同じ店で。

田島は数える人で、会うたびに数を言う。同期は十一人いた。いまは四人になった。

誰がいつ辞めて、いまどこにいるかを、田島は全部知っている。名前を出すと、年と、行った先が続けて出てくる。

和之は数えていない。何年目かも、言われれば計算するが、ふだんは出てこない。

数えているものが無いわけではない。三秒がある。

ただ、三秒は数えても意味がない。毎朝同じ三秒で、増えも減りもしない。田島の数はいつも減っていくが、和之の三秒は減らない。

田島に建物の話をしたことはない。話すと、たぶん田島は、未練か、と聞く。

未練ではないので、そこから先を説明しなければならなくなる。説明できないことは分かっているので、話さない。

典子にも、建物が見えることは言っていない。二十二年前に受かっていた話はしたが、毎朝それが見えることは言っていない。

隠しているのではない。言う場面が来ない。朝、電車で何を見たかを、人は家で報告しない。

第五章 シート

去年の秋に、その建物が工事に入った。

外側全部が足場に囲まれて、シートで覆われた。窓から見えるのは、灰色の平らな面だけになった。

和之は、その面を見た。

次の朝も見た。何も見えないと分かっていて、同じところで顔を右に向けた。

――建物が無くても、同じ側を見る。

シートの面には、細かい継ぎ目が縦に入っていた。風の強い日は、その面が少しふくらんでいた。

半年ほどでシートは外れて、また白い壁が見えるようになった。見えるようになった日も、特に何も思わなかった。

シートのあいだも、外れたあとも、和之がやっていることは同じだった。

そこで和之は、自分が見ていたのは建物ではないのかもしれない、と思った。

では何を見ているのかというと、そこはやはりうまく言えない。

選ばなかったほうを見ている、というのがいちばん近いが、選ばなかったほうというのは、どこにも形が無い。形が無いものを、毎朝三秒だけ、同じ方向に見ている。

エピローグ

今朝も、高架にかかった。

顔が右を向いて、白い建物が窓の枠に入って、出ていった。

三秒だった。

和之は前を向いて、降りる支度をした。鞄を持ち直して、扉の前に移った。

――選ばなかったほうは、まだそこに建っている。

建っているというだけで、それ以上のことは何も起きない。二十二年、一度も起きていない。

起きないことに、困ってはいない。困っていたら、二十二年も見ていられない。

明日の朝も、同じところで顔が右を向く。

あなたにも、選ばなかったほうを毎日確かめているものがありますか。

ソウルミッション358

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