読む人は、いない
アメリカ・現代。町のはずれに住む六十七歳のルース・ドーソンは、三十年、毎朝おなじ帳面に天気と気温だけを書いている。始めたのは畑をやっていたからで、畑は二十年前にやめた。読む人はいない。書かなくて困る人もいない。書いたものを見返したことは一度もない。やめようと思ったことはない。やめる理由が、どこにもない。

朗読で聴く
第一章 二つの数
ルース・ドーソンは六十七歳になった。
アメリカの、町のはずれに住んでいる。家の裏はすぐ野原で、遠くに一本、木が立っている。
毎朝、帳面に二つのことを書く。天気と、気温。
窓の外を見て、晴れか、曇りか、雨か、雪かを決める。それから窓の外に付いている温度計を見て、数を書く。
温度計は窓の外の枠に付いている。ルースが来る前から付いていたもので、目盛りは少し薄くなっているが、まだ読める。
冬は窓を開けないので、ガラス越しに見る。夏は開いていることが多い。見え方は変わるが、読む数は同じところにある。
書くのはそれだけだ。風の強さも、雲の形も書かない。三十年、書く項目が増えたことも減ったこともない。
書き方も変わっていない。左に日付、その右に天気、いちばん右に気温。日付は数字だけで、月は月が変わったときにだけ書く。
時間は決めていないが、だいたい起きてすぐになる。台所へ行く前だ。
机は窓の下にあって、帳面はそこに出したままにしてある。しまうと、しまった場所を探すことになる。
ペンは一本を使い切ってから次を出す。切れたことに気づくのは、たいてい書いている途中だ。
ペンも同じところに置く。右側の、机のふちから指二本ぶんのところ。
書き終わるまでに、一分もかからない。冬に窓の下が冷えるので、その季節だけ少しだけ早くなる。ほかに、速くなったり遅くなったりする理由がない。
帳面は一年に一冊と決めている。いっぱいになるからではない。
薄い罫の入ったもので、一ページに一か月ぶん入る。一年で十二ページしか使わない。残りは白いまま、棚に入る。
同じ店の同じ型のものを、まとめて買ってある。いま使っているのが三十一冊目になる。
第二章 要らないと思ったのに
始めたのは、畑のためだった。
三十七のときに、家の裏の平らなところで野菜を作りはじめた。売るためではなく、家で食べるぶんと、近所に配るぶんくらい。
畑は十坪ほどだった。トマトと、いんげんと、玉ねぎ。夏の終わりにいちどきに採れるので、近所に配った。配る先の家も、いまは半分になった。
始めた年に、郡の農業相談の人が一度だけ来た。その人が、天気と気温は毎日つけておくといい、と言った。
ルースはその日から書いている。その人には、それきり会っていない。名前も覚えていない。
畑は二十年前にやめた。腰と、膝と、それから一人になったことが重なった。夫が死んだのは、その前の年だった。
やめると決めたのは秋で、次の春に種をまかなかった。それだけのことだった。誰にも言わなかったし、聞かれもしなかった。
やめると決めた日の夜に、ルースは机の上の帳面を見た。
これはもう要らない、と思った。
思ったのに、次の朝、起きて、窓の外を見て、書いた。
書いてから、要らないと思ったことのほうを思い出した。思い出しても、書いたものは消せない。
その次の朝も書いた。
二十年、そうしている。
第三章 姪
姉の娘が、二年に一度くらい寄る。ケイティという。町から車で三時間のところに住んでいて、子どもは二人とも家を出た。
四十を過ぎたころから、来ると少し長くいるようになった。
棚は台所の隣の部屋にあって、下の二段が帳面で埋まっている。上の段は空いている。
去年の秋に来たとき、姪はその棚を見て、あれは何、と聞いた。
ルースは、天気を書いたもの、と言った。
姪は、見ていい、と言って、いちばん端の一冊を抜いた。
開いて、三ページくらい見て、閉じた。
何も言わなかった。すごいね、とも、細かいね、とも言わなかった。棚に戻して、それから台所の窓が新しくなったことの話をした。
ルースは、そのほうが正確だと思った。
あの帳面には、言うことのできることが何も書いていない。晴れ、と、数字。それだけだ。読んで何か言えるとしたら、それは読んだ人が足したものになる。
姪は棚を見ながら、三十冊以上あるね、と言った。
ルースは冊数を数えていない。年に一冊なので、数えれば分かる。分かるが、数えたことがない。
姪が帰ってから、ルースはその一冊を出してみようかと思った。思っただけで、出さなかった。出しても、姪が見た三ページと同じものが並んでいるだけだ。
第四章 自分も読まない
ルースは、書いたものを見返したことがない。
一度もない、というのは大きな言い方に聞こえるが、本当に一度もない。
去年の今日が何度だったかを知らない。棚から出せば三十秒で分かるが、知りたいと思ったことがない。
書いた数字を、書いた直後に忘れる。昼にはもう出てこない。それでも困ったことはない。困る場面が来ない。
畑をやっていたころは、まだ違った。前の年の同じ週を見て、種をまく日を決めていた。あのころは読むために書いていた。
そのころの帳面には、種をまいた日や、初めて実が付いた日が書き足してある。あれは読み返すために書いた字で、いまの字とは押し方が違う気がする。気がするだけで、確かめてはいない。
いまは、読むためではない。
では何のために書いているのかというと、それが分からない。分からないことを、困ったこととも思っていない。
書いているあいだ、ルースは何も考えていない。窓の外を見て、温度計を見て、二つ書く。それだけの一分がある。
その一分に、何かが起きたことは、たぶんもう長いことない。
第五章 やめる理由
やめようと思ったことは、二十年前のあの夜の一度だけだ。
あの夜のことは、いまでもよく覚えている。要らない、と思ったときの、机の上の帳面の見え方まで覚えている。あれが最後に何かが動いた夜だったのかもしれない。
あれ以来、考えていない。
読む人はいない。姪も、あれきり開いていない。
誰にも言っていないので、やめても誰も気づかない。
書かなかったら困る人も、いない。畑はもう無いし、誰かに聞かれることもない。
――やめる理由が、どこにもない。
やめる理由がないというのは、続ける理由があるということとは違う。続ける理由も、同じくらい無い。
どちらも無いところに、手だけが残っている。
ルースはそれを、寂しいこととは思っていない。三十一冊の紙は、家の中でいちばん場所を取っていない棚に収まっている。誰の邪魔にもなっていない。
棚の下の二段は、外から見れば同じ厚さの背が並んでいるだけに見える。中のほとんどが白いことは、ルースしか知らない。
いつか誰かが家を片づけるときに、あれは全部捨てられるのだろう。それも、たぶん正しい。
エピローグ
次の朝も、起きてすぐに窓の外を見た。
曇りだった。温度計は四十二度だった。
帳面を開いて、二つ書いた。ペンを右に戻した。
窓の下の机は、肘が当たるところだけ木が白くなっている。三十年ぶんの白さで、指でこすっても取れない。
台所へ行って、湯を沸かした。
――今朝が何度だったかは、昼には忘れている。
忘れても、紙のほうには残っている。残っているが、誰も開かない。
明日の朝も、同じところにペンを戻す。
あなたにも、理由がないまま続いているものがありますか。
あなたの魂のテーマに気づく場所