帽子を、取る
敬意

朗読で聴く
第一章 通りに出る
ハロルド・クレイは七十九歳になった。
アメリカの、通りが二十本ほどしかない小さな町に住んでいる。家は町のはずれで、玄関を出ると、すぐそこが道になる。
霊柩車が通ると、ハロルドは帽子を取る。
取って、胸に当てて、車が過ぎるまで立っている。顔は正面に向けたまま、車のほうは見ない。過ぎたら、かぶり直す。
どのくらい下げるかも、いつかぶり直すかも、ハロルドが決めたものではない。
教わったのは十四歳のときだ。父と二人で道の脇を歩いていて、後ろから車が来た。父は何も言わずに帽子を取って、胸に当てて、止まった。ハロルドは半歩先まで行ってから戻った。
車が過ぎてから、父はひとことだけ言った。通るときは、取る。
なぜかは言わなかった。ハロルドも聞かなかった。
六十五年、同じようにやっている。
形は細かい。取るのは右手で、つばの前のところを持つ。胸に当てるときは、ふちが体につくところまで持っていく。ひじは開かない。顔は動かさない。
この細かさは、父を見て覚えた。父が言葉で説明したことは、一度もない。
だから、いま自分がやっている形が、父のやっていた形と同じかどうかは分からない。似てはいると思う。確かめる方法はない。
いまでも、正式に理由を聞いたことはない。聞く相手は、もういない。
第二章 誰かは分からない
誰の葬式かは、知らない。
町の葬儀場は一つだけで、そこから墓地まで、道は一本しかない。だから、この道を通る。年に四十台くらいだろうか。数えたことはない。
知っている人のときもある。同じ学校にいた男、水道の仕事をしていた男、通りの向かいに三十年住んでいた女。名前が分かる日は、少しだけ長く立っている気がする。
分からない日のほうが多い。町の人の数は増えていないのに、ハロルドの知らない人は増えた。名前も、顔も、どんな仕事をしていたのかも分からない。
それでも同じようにやる。知っているか知らないかで形を変えたら、形ではなくなる。
いつのころからか、道の脇に立っているのはハロルドだけになった。
誰かがやめたわけではないと思う。やる者が、いなくなっただけだ。あとから町に来た人はこの習わしを知らないし、知っていた人は、順番に向こう側へ行った。
そのことを、ハロルドは誰にも言っていない。言うと、減っていくほうを数えることになる。
息子のディーンは五十一歳で、月に一度、二時間かけて車で来る。来ると、家の直すところを数える。今年は七つあった。裏の網戸、玄関の段、風呂の栓。
ディーンは数えたものを紙に書いて、冷蔵庫に貼っていく。
ハロルドが確かめているものは、紙に書けない。何台通ったかも、何回取ったかも、数えていない。
第三章 車の中から
ドロシーが死んだのは、四年前だ。八十一だった。
最後の一年は町の病院にいた。ハロルドは毎日通って、帰りはあの道を歩いた。歩いているあいだに霊柩車が通ったことは、一度もない。
葬儀の日は晴れていた。葬儀場から墓地まで、あの一本の道を通った。ハロルドは霊柩車のうしろの車の、右側に座っていた。
窓の外を見ていた。見ようとして見ていたわけではない。ほかに見るものがなかった。
通りには人がいた。何人かは立ち止まっていた。買い物袋を持った女が二人、店の前で話をやめて、こちらを見ていた。
帽子を取った人は、いなかった。
ハロルドはそれを、そのときは何とも思わなかった。思ったのは家に帰ってからで、思ってからも、誰かが悪いとは思わなかった。
思ったのは、別のことだ。
あの窓から、外はほとんど見えていなかった。ガラスに空が映っていて、こちらが暗いので、外はぼんやりとしか入ってこない。人が立っていたことは分かったが、その人が何をしていたかまでは分からなかった。
もし誰かが帽子を取っていたとしても、ハロルドには見えなかった。
あとになって、あの四秒か五秒のあいだに自分が何を見たのかを思い出そうとした。女が二人いたことは覚えている。店の名前は覚えていない。誰の顔も覚えていない。
覚えていないのに、帽子を取った者が、いなかったことだけは覚えている。
それがおかしいことに、ハロルドは気がついた。見えていなかったのなら、いなかったとも言えないはずだ。
第四章 届いていない
つまり、六十五年、一度も届いていない。
中の人はこちらを見ていない。見たとしても、ガラスの向こうは暗い。見えたとしても、誰だか分からない。
ハロルドは台所の椅子に座って、そのことを順番に確かめた。どこにも抜け道がなかった。
座ったのは、ドロシーが使っていたほうの椅子だ。自分の側からではうまく考えられなかったので、向かいに移った。
やめる理由は、これで全部そろった。
三日、やめた。
一日目は何も起きなかった。二日目も起きなかった。
もっとも、三日というのは決めた長さではない。三日目までは霊柩車が通らなかった、というだけだ。やめられたのではなくて、試されなかった。
四日目に、道を通る音がした。あの車は音が違う。速さが違うので、タイヤの音が長く伸びる。
気がついたら、手が帽子にかかっていた。
考える前だった。考えたのは、帽子を胸に当てて立ってからだ。
その日、ハロルドは、やめられないことと、届いていないことは別のことなのだと思った。思ったが、それで何かが片づいたわけではない。
第五章 なんで、それを
春に、郵便の若い男が代わった。二十代の後半に見えた。
運んでくるのは月に一度の薬で、玄関まで持ってくる決まりになっている。ハロルドがその男と話したのは、そのときが最初で、いまのところ最後だ。
その男は、ハロルドが道の脇に立っているところを一度見た。車が過ぎてから、荷物を渡しながら聞いた。
なんで、それをやるんですか。
ハロルドは答えようとして、言葉が出てこなかった。習わしだから、と言いかけて、やめた。それは答えではない。
男は待たなかった。ああ、と言って、自分の車のほうへ戻りながら言った。
うちの祖父も、やってました。
それだけ言って、行ってしまった。
ハロルドは、それがどこの町の話なのかを聞かなかった。聞けばよかったと、あとで思った。
やってました、と過去で言った。その祖父も、もういないのだろう。それも聞かなかったので分からない。
――向こうは、気づいていない。
いまでも、なぜやるのかは言えない。
言えることは一つだけある。帽子を取って立っているあいだ、ハロルドの手は、名前も顔も知らない誰かの側にいる。渡っていない。受け取られてもいない。それでも、そのあいだだけ、そちら側にいる。
それが何なのかは、分からないままだ。
エピローグ
夏の夕方に、また一台通った。
ハロルドは玄関を出て、道の脇に立って、帽子を取った。胸に当てて、正面を向いたままでいた。
車は速くなかった。過ぎるまでに、たぶん十秒ほどあった。
中に何人乗っていたかは見ていない。見ないことにしている。見てしまうと、こちらを見ているかどうかを確かめてしまう。
立っているあいだ、ハロルドは何も考えていない。考えていないというより、考えることがない。渡すものはもう手の中にあって、あとは車が過ぎるのを待つだけになる。
過ぎてから、かぶり直した。
直したときに、つばの形が指に合っているのが分かった。六十五年で、指のあたるところだけ、少しへこんでいる。
この帽子は三つめだ。前の二つも、同じところがへこんでいた。
向こうに渡らなかったものが、こちらの側にだけ形になって残っている。
――知らない人に、同じ形を渡している。
あなたにも、気づかれないまま続けているものがありますか。
あなたの魂のテーマに気づく場所